- 14歳からの個人主義
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丸山 俊一 著
2021/10/21出版
定価1,650円(本体1500円+税)
プロローグ――どうせ、だれも分かってくれない
・「スーパーマリオ」なんかやらない
僕は「哲学者」というのをやっている。
え、哲学者? それっていったい、何をやってる人なの? ……そう思う人は、多いんじゃないかな。
答えは簡単だ。自分にとってどうしても解かなきゃいけないモンダイを、とことん考え抜いて解く。それが哲学者の仕事だ。
僕もまた、どうしても解かなきゃいけないあるモンダイを、子どもの頃からずっと考えてきた。どうすれば、人はお互いに分かり合い、認め合うことができるんだろう……。一人もがきながら、考えてきた。
僕は、伝統を重んじる日本刀の鑑定士の父と、「流行には乗るな」「人と同じことは絶対するな」という、ちょっと変わった教育方針を徹底した母のもとに生まれ育った。
その教育が早くも実ったのは、小学校二年生の時のこと。ファミコンが大流行し、日本中の小学生が夢中になっていた頃のことだ。
任天堂が「スーパーマリオブラザーズ」を発売したのが、一九八五年。それはその後、またたく間に、ほとんどすべての小学生の間に広まった。
その流行に、僕は自ら背を向けた。親がファミコンを禁止したから、というのではなく、自分でそう決めた。実際、ゲームにはほとんど興味をひかれなかった。
それまで外でいっしょに遊んでいた友人たちは、ある時からみんな家にこもり始めた。いっしょに遊ぶ時は、決まってだれかの家に行ってゲームだったから、僕は一人、仲間に入れずいつも作り笑いを浮かべていた。
そのうち、友だちに誘われても行かなくなった。そしてやがては、誘われることもあまりなくなった。
その代わり、僕は一人、父がくれた試し斬り用の刀で竹を斬って遊んでいた。竹刀を分解して、それを庭に突き刺し一刀両断する。こっちのほうが、ファミコンなんかよりよっぽど楽しい。そう思っていた。
母が愛してやまなかった手塚治虫が、僕にとっても〝神〟だった。『鉄腕アトム』は言うまでもなく、『ブッダ』と『火の鳥』こそが僕のバイブル。八〜九歳の頃から、そう言っていた。流行のマンガやアニメには、見向きもしなかった。
「生きるとは何か」
手塚作品を読みながら、日々そんなことを考えていた。
「死ぬのが怖い」と言って夜泣き出す子どもはたくさんいるけど、僕は逆に、死ねなかったらどうしようと考えて泣いていた。火の鳥の生き血を飲んで不老不死になった、手塚マンガの登場人物たちの苦悩が恐ろしかった。
ブッダの生き様に憧れ、いつか自分も、菩提樹の下で悟りを開きたいと考えていた。
そして友だちがいなくなった。
もっとも、今思えばそれは主観的な話で、本当はまったくの一人ぼっちだったというわけじゃない。近所で友だちと遊んだ思い出も、それなりにある。傍から見れば、比較的リーダータイプの少年でもあった。
でも、多くのクラスメイトの中にあって、僕は、ファミコンや流行のマンガの話に入っていけないさびしさや、自分の好きなものを分かってもらえない悲しさを、一人勝手に抱え込んでいた。
子どもの頃に一番怖れていた先生の言葉、それは、「はい、じゃあ好きな人とグループ組んで」というあれだった。僕はこれを「悪魔の言葉」と呼んでいた。グループを組める相手なんていなかったから。だからこの言葉が発せられるたびに、「先生、トイレ行っていいですか?」と言ってトイレに行き、戻ってから、「先生、トイレに行っていたのでグループ組めませんでした」と、どこかのグループに割り振ってもらっていた。
・便所飯のパイオニア
宝塚歌劇も好きだった。家も宝塚に近かったので、よく母に連れて行ってもらっていた。ちなみに、手塚治虫も宝塚を観て育った。
毎日、宝塚のビデオを観ては、二人の妹と舞台を再現した。ほとんど武家の家長みたいに古風だった父には、「男らしくなれ」と厳しく教育されていた。でもその時なりきるのは、なぜか決まって娘役のほうだった。あの当時は、女の子になりたいと思っていた。と言うか、気持ちはほとんど女の子だった。
こうした周囲とのズレがおそらく一つの大きな理由となって、物心ついた頃から、「過敏性腸症候群」というのに苦しめられていた。緊張すると下痢になる、一種の神経症だ。
当時はそんな病気があるなんて知らなくて、毎日ものすごく恥ずかしかった。ほとんど何でもないことに緊張して、突然下痢になる。バスに乗れば、下痢になる。スーパーに行っても、下痢になる。電話が鳴っても、下痢になる。「トイレに行けない」と少しでも思えば、とりあえず必ず下痢になる。
もちろん学校は地獄だった。教室は、ただただ腹痛に耐えるだけの場所だった。だからお尻に消しゴムをつめていた。この下痢は、絶対に人に知られてはならないと思っていた。
中学二年で「便所飯」を始めた。ご飯をいっしょに食べる友だちがいないのが恥ずかしいので、トイレで弁当を食べるというやつだ。友だちがいないだけじゃなく、しょっちゅう下痢になっていた僕にとっては、おあつらえ向きの場所だった。今になってようやく「便所飯」が問題になって騒がれているけど、「何を今さら」と密かに思ったりしている。僕がやっていたのは二〇年も前のことだから、僕こそ便所飯のパイオニアなのだ。
どうせだれも、僕のことを分かってくれない。分かるはずがない。いいや、分かられてたまるか。僕はいつしか、そう思うようになっていた。
でもその一方で、本当はこうも思っていた。
人はどうすれば、お互いに分かり合うことができるんだろう、認め合うことができるんだろう……。
長らく抱えていた孤独感から、僕は本当は抜け出したかったのだ。
・哲学の〝イケてる〟答え
――それから十数年、哲学に出会って、僕の人生は大きく変わった。
僕は、この世に僕と同じモンダイを、とことん考え続けた人たちがいたことを知った。そして彼らの出した〝答え〟は、悔しいくらいにイケていた。
「やられた」と思った。僕は僕で、それまでの人生において、自分なりの〝答え〟を見つけていたつもりだったから。でも過去の哲学者たちの出した答えは、それよりずっとずっと深かったのだ。
人間が思い悩むことや考えることなんて、実はいつの時代も似たり寄ったりだ。そして過去の哲学者たちは、そうした多くの問題に、すでに見事な〝答え〟を与えてくれていた。「くーなるほど、この問題はそう考えれば解けるのか!」。哲学は、時にそう叫んでしまうような、驚くほど考え抜かれた知恵に満ちていた。
自分にとってどうしても解かなきゃいけないモンダイを、とことん考え抜いて〝解く〟。さっきも言ったように、それが哲学者の仕事だ。
哲学なんて、意味のない役に立たないことを、ぐちゃぐちゃだらだら、むずかしい言葉をこねくりまわして考えているだけのもの。そんなふうに思っている人も、けっこう多いんじゃないかと思う。
でも、哲学は実は全然そんなものじゃない。問題をとことん考え抜いて〝解く〟。この〝解く〟というのが、実はとても大事なポイントなのだ。そしてまた、哲学が出す〝答え〟は、独りよがりのものでなく、できるだけだれもが、「なぁるほど、それはたしかに本質的だ!」とうなってしまうようなものでなければならない。哲学は、そうした徹底的に考え抜かれた、力強い〝考え方〟を提示するものなのだ。
この本は、僕がどのように哲学に出会い、そしてどんなふうに、ある意味〝救われた〟のかを語ったものだ。そしてその過程で、そもそも哲学っていったい何なのか、また、哲学はこんなにも「役に立つ」、そしてこんなふうに「役に立てられる」んだということを、読者の皆さんにつかみ取ってもらえたらと思っている。
高尚な哲学を、「役に立つ」なんて気安く語るな、と言う人もいるかもしれない。「役に立たない」ことを、ひたすら「考え続ける」ことこそが哲学だ、と言う人もいるだろう。
でも僕は胸を張って言う。「哲学は、役に立つ」と。少なくとも、僕には人生が百八十度変わってしまうくらい役に立った。
だから僕は、この本で、僕の半生を振り返りつつ、そんな哲学の知恵の数々を語りたい。そして皆さんの人生にとっても、それが少しでも役に立つものになってくれればと願っている。