06親が死ぬ

2015年の年始に、友達との新年会で、親との関係の話になった。私は親と、特別仲が悪いわけではないし、年に1~2回は帰省している。が、帰省して泊まるのは祖母の家で、自分が家を出てから、実家に泊まったことは一度もない。主な理由は、父だった。

私と父の関係が微妙になったのは、もとをただせば、本当にくだらない話だ。まず、うちの父は厳しかった。娘を公務員にしたがっていて、九州大学に入れたがっていた。そして品行方正になってほしかったのか、単に心配だったのか「日が暮れたら外出禁止」という門限が課せられていた。そんなのは、私の世代でも、田舎の話であっても、ありえないくらい厳しい門限だった。

私は中学生の頃から、音楽を聴くことが好きになった。まず爆発的にハマってしまったのが、なんとB'zである。しかしこんな門限でライブなんか行けるはずもない。お金もない。私は知恵を絞り、土日だけ梅ヶ枝餅屋で時給500円のバイトをすることにした。土日になると妙に早起きしてチャリでどこかに行って夕方に帰ってくる娘を、親はどう思っていたかわからないが、バイトはバレてはいなかった。

そして、ライブといえば、だいたいツアーである。私は1回でも多く見たいので、福岡公演はもちろん、佐賀、大分、北九州、長崎と近隣の県で行けそうなチケットを買った。そして、塾のスケジュールと合わせて、西村京太郎ばりに時刻表と格闘して、なんとか「塾に行ってました」と言い逃れできる時間に帰ってこれるように画策した。もう絶対無理な場合は「友達の家に泊まりに行く」と言った。外泊禁止なのでこれも許可が下りるまでなかなか苦労したが、「ライブに行く」というのは絶対に許してはもらえなかったので、それに比べたらハードルが低かった。それで、親にはバレず、塾を隠れ蓑にして私はB'z九州5箇所追っかけをしていた。

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しかしその後、高校生になり、私は今度は米米CLUBにハマっていた。いつも通り「塾に行ってます」で言い逃れるつもりだった。しかし、なんとその日のライブにミュージックステーションの中継が入ったのである。家でテレビを観ていた親はピンと来たらしく、塾に電話をした。もちろん私が塾にいるはずがない。帰宅したら即正座、そこから何時間にも亘る説教が始まった。

始まったけど、正直私は自分は何にも悪いと思ってなかった。その日は本当は塾がない日で、「補習がある」と嘘をついて出かけたので塾はさぼってない。夜の街が危険だと言われても、ライブの会場から駅まで大量のファンが移動するわけで、全然危なく感じたこともない。高校生が好きなバンドのライブに行くぐらい、普通じゃないか。ずーっと勉強して、塾でも勉強して、年にたった数回ライブに行くことの何がいけないんだと思っていた。

そして、このとき私は2DAYSのチケットを持っていた。今日怒られるのはいい。何時間怒られても正座させられてもかまわない。しかし明日のライブに行けないっていうのは絶対避けたい。当時の米米CLUBの2DAYSというのは、セットリストも演出も全部まるっきり違う、2日で1つのライブと言っていいようなものだったからだ。
「とにかく明日のライブに行かせてほしい」と土下座した。泣きながら正座で土下座。何時間続いたかわからないが、嘘をついたことは謝る、しかし好きなライブぐらい行かせてくれてもいいじゃないかと私は言い続け、話は平行線をたどり、何を言っても反省するどころか「明日も行かせろ」と言い募る娘にキレて、父は私の頬をバッチーン! と張った。

翌朝、母がこっそり、「行ってきなさい、でも、気をつけて行きなさいよ」と言った。当たり前だ。何があったってチケット取れてるんだから行くに決まってるだろう。バカバカしい。

私はこのとき、父のことを「一生許さない」と思った。私の好きなものをくだらないとえんえん罵倒し、そんなものが何になるんだと踏みにじり、自由を奪う父親のことを、一生許さない。そう決めた。ほとんど口をきかなくなり、高校三年生のとき、私は勝手に家を出て祖母の家に住み始め、そのまま東京の大学に進学した。

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父に助けてもらったことは、その後、何度もある。しかし、感謝はしていても、父の愛情が伝わってきても、「絶対許さない」という気持ちはずっと残っていた。まさかの米米CLUBで、私と父の間には決定的な亀裂が残っていたのだった。父も今さら「あのときの米米CLUBのことはすまんかった」とも言い出せなかっただろうし、それがきっかけだったと気づいていたかも不明である。もともとコミュニケーションがぎこちない人で、そこがまた自分と似ていて、自分を嫌うようにして、父を嫌っていた。父の中に自分の影を見た。そう、一歩だけ進む道が違っていれば、私だって本質的には、快楽的なものなんて否定して、真面目に生きることこそ正しいと考えるような人間になっていただろうと簡単に想像できた。

だからこそ、そこから逃げるように楽しいことを追いかけ続けた。父のようにはなりたくない。ならない。エロ本の編集者をしたり、AVライターになったりしたのも、その中のひとつだろう。父にとってそれは歓迎すべき展開ではなかっただろうが、この頃からだんだん「もう、こういう子なんだから仕方がないのかもしれない」という諦めたような受容の態度を見せるようになってきた。

九州の長女は、父親を倒さないと外の世界に出られない。父親と暮らしていたとき、私は自分の未来を、公務員になって市役所とかで事務をやっている姿しか思い浮かべられなかった。将来が楽しみだなんて一度も思ったこと、なかった。高校に入って、公務員になるのも九州大学に入るのも自分の学力では無理かも、とわかりはじめたときには、肩の荷が下りた気がした。それで、父の勧めない大学に進学し、家を出た。それは「父殺し」に近いことだったのだと思う。

助けがほしいときだけ実家に助けてもらって、父とは断片的な、うわべだけの会話しかしてなくて、父が私からの愛情を欲しているとわかっているのにあげられないことが苦しかった。一方的に甘えて、助けてもらって、自分はずるいと思っていた。そのことがずっと、心にひっかかっていた。

親だってもう60代だ。まだ若いけれど、まだまだ元気で大丈夫、と言い切れる年齢でもない。40歳前になると、訃報が増える。親族、友達……いつ誰がどうなるかなんてわからないし、自分だってどうなるかわからない。

私は2015年の、友達との新年会のとき、こう宣言した。「次に父と会ったら、ハグする」。友達は「えー! 私、父親とハグなんかできないよ!」と笑っていた。でも、「する」と言った。いつが最後になるかわからない。今年やる。そう決めた。

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そう決めた数ヶ月後に、母親が声をひそめるようにして電話をかけてきた。父にガンが見つかった、手術はしない、という話だった。手術はしない、ということは末期なのだなとわかった。それでも、なんだか元気そうな様子ばかりを話すので、そんなに大変な状況じゃないのかな? と思って、私はすぐには帰省しなかった。やっと帰ったのは、その連絡をもらって、何ヶ月も経ってからだった。基本的に自宅療養だった父は、痛みを訴えて入院したばかりだった。

強かった父は、痩せていた。でも、父だった。母が席を外すと「お前ならわかってくれると思うけん言うけど、安楽死させてくれるところに連れてってくれんか。スイスかどっかにあるっちゃろう?」と言ってきた。ひどい痛みに耐えて、耐えて、それでも腹水が溜まって手術をしなきゃいけなくなって、それがいつまで続くかわからない毎日は、もう嫌だと言った。痛みがひどいときには「殺してくれ、死なせてくれ」と言った。背中をさすろうとしても、それすら痛いから、と拒まれた。できることなど何もなかった。

痛みが少し治まり、病室を出るときに、私は父とハグした。「今まで何もできなくてごめん」と言った。父は「わかっとる」と言った。二人とも泣いていた。そのあと、私の100倍ぐらい乙女な母が「あっ、かあさんも久しぶりにハグしてもらおっかな~♡」と割り込んできたので、私と父は苦笑いしながら離れた。それが父とまともに会話をした最後になった。二日後に容体は急変し、私と弟と母が全員揃っているときに、父は息を引き取った。

どうしても外せない仕事があり、いったん東京に戻ってお通夜の日に帰省すると、なんと弟が何を思ったのか、中邑真輔の髪型になっていた(ご存知ない方は画像を検索してください)。そこそこシリアスな気持ちで帰ったのに、もういきなり「笑ってはいけない葬式24時」の始まりである。九州の葬式はとにかく喪主である母より長男、長男、と長男が立てられるので気合が入ったのだろうが、なぜ真輔ヘアに……。

九州の葬式は、本当にクソみたいな葬式で、焼香ではまず母の名前が呼ばれ、弟の名前が呼ばれ、私は「その他ご親族様」と呼ばれた。親戚からは「お前が東京に行って帰ってこんけん死んだんやぞ」「もう結婚はいいから、お母さんの生きがいのために孫だけでも産みなさい」と言われ、私は一度も泣けなかった。米米CLUBのためにはあんなに泣けたけど、こんなことのために流す涙なんか、ない。親孝行なふりをするために、父を愛していたことをアピールするために流す涙なんかない。泣く資格なんか、自分にはない。

火葬場で、私は父の骨のかけらをもらって帰った。宗教は信じない。お経が下手くそな坊主もしょうもないし、納骨堂もお墓もどうでもいい。法事とかもたぶん、出ない。父の骨はきれいだった。

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親子だからって、気が合うわけじゃない。価値観が合うわけじゃない。子供だから理解できないこともあるし、親には親で考えがあったのだろう。溝が生まれたきっかけはしょうもないけど、私にとってはしょうもなくなかった。やりたいことができない状況は、大人になってもある。けれど、できる状況でそれを誰かに禁じられるのも、したくもないことを強制されるのも、我慢ならない。私は、好きなことをやる。快楽的なものを貪って、傷ついてもいい。霞を食って生きて、不安でもいい。私には父の人生は、わからない。私が父の人生を本当には知り得ないように、私は父の生きなかった人生を生きる。

私は父に、本当に似ていたと思う。頑固なところ、意志を曲げないところ、基本的に真面目で、大きくは道を外れることができないところ、コミュニケーションが苦手なところ、欲しいものを欲しいと、大きな声で言えなくて、黙って自力で手に入れようとするところ、人に甘えるのが下手なところ。それを全部もらって、父の生きなかった人生を、私は生きる。

40歳はまだ若い。けれど、父の人生は、そこから25年ぐらいしかなかったのだから。