1240歳で人生が始まる

8月の終わりに、オールナイトのAV上映イベントに出演した。外に出るともう明るくなっていて、私は楽しかったイベントの余韻を引きずっていたし、このまま帰っても興奮したまま眠れないんじゃないかと思って、「あと一時間待って、映画観る!」とぐずり始めた。友達のAV監督の今田さんが、「じゃあお茶でもつきあうよ」と言ってくれ、早朝のミスドでドーナツを食べ、コーヒーを飲むことにした。

今田さんは、私よりも1つ年上で、学年は同じ、みたいなやつで、ほぼ同い年みたいなものだ。通ってきている文化が似ているのと、今田さんのどっか力の抜けまくった柔らかい感じに油断して、私はわりと、今田さんには警戒の壁を下げて自分の話をしてしまうことが多かった。

今田さんは、今年、長年所属していたAVメーカー・ハマジムを会社都合で退社することになり、「ハマジム以外でAVを撮る気はないから」とAV監督引退宣言をしたばかりだった。もともと、「ハマジムだから撮ってる」とよく言っていたから意外ではなかったし(監督の撮りたいものへのこだわりに対する自由度が、ハマジムと他のメーカーではまったく違う)、AV以外のものを撮れる実力もあると思っていた。だから、きつい状況なのか、チャンスなのか、まだわからないような曖昧なときが、そのときだった。全然、心配はしてなかった。柔軟だし、人望もあるし、実力も買われている。AVの世界に戻ってくるのはいつだってできる。いっぺん、外で、他に好きなものがあるならそれを撮ってきてほしいし、それをわたしも観たかった。

コーヒー

「雨宮さんは最近どうなの?」「いや、40歳くるの、やばいよね」「どうやばいの?」「40歳直前の時期っていうか、今もだけど、ありえないようなことばっかりで、今年はめちゃくちゃ。今も8月だとか言われても、全然もう、そんなこともわかんないぐらい、アップダウンが激しい。時間の感覚が歪む」「あー、もともと雨宮さん、そういうとこあるよね」「メンヘラって思ってるでしょ」「いやいや、まぁそれもあるけど」「もともと不安定だけど、ちょっとやっぱり今年の波は普通じゃないよ」「でも、そういうときって、仕事はさ」「できるんだよねえ。死ぬほど書ける。もう書けないものはないぐらいに思う日もある。実際は、そこまで書けるわけじゃないんだけど、書けるよ。普通のときよりも」。

そう言ったら、「でもさ、そういうのって、そうなるってわかってて追いかけちゃうところ、ない?」と言われた。そうだ。その通りだ。「俺たちみたいな仕事って、なんかこう、自分の心を持ってかれるようなもん見つけると、深追いしちゃうじゃん。そこ掘れば面白いもん撮れるに決まってんだもん。でも、撮れればそれでいいかっていうと、こっちはこっちなりに傷つくし、やっぱきついんだよね」。
 そう、心を動かされるものを追いかければ、そうなる。揺さぶられるし、振り回される。望んでそうしているからといって、ダメージがないわけではない。

心を道具に仕事をするというのは、そういうことなのだ。

「ネタにさ、命賭けちゃダメだよ」。今田さんは帰り際にそう言った。「いくら面白いものが作れるかもしれなくても、命取られるとこまで追っちゃ、だめだよ。追いたくなるけど、この年になって思うのは、やっぱ命取られるようなとこまで行っちゃったらダメだなってことだよ」「自分の人生を食いつぶされるほど、何かを深追いしちゃダメってことだよね」「うん。それをやる人もいるし、それが面白い人もいるけど」。

その先の言葉は言わなかった。お互いに、生きててほしい。幸せであってほしい。そのうえで、いいものを作ってほしい。駅で手を振って別れた。

サボテン2

「不幸でなければ面白いものを作れない」というジンクスのようなものが、この世界にはある。確かにそういうタイプの人もいる。幸せになったとたんにつまらなくなってしまう人。不幸であることを原動力にできる人、ネタにできる人。不幸なものほど共感を得られやすいし、つらい、さみしい、切ない、そういうネガティブな感情のほうが、人の心に寄り添っていきやすい。「不幸な頃のほうが面白かった」。それは、この世でいちばん下品な言葉だと私は思っている。その下品な言葉と戦って勝つために、生きたいと思うことさえある。

そう思っていても、その前の日の明け方、私は近所のカラオケボックスに安酒をトム・フォードの紙袋に入れて持ち込んで、トイレで吐いた挙句ぶっ倒れ、トイレで倒れている間もしっかり延長料金を取られ、自宅までたった3分の距離を歩くのがやっとで、気絶するように眠ったあとで気付けば腕に身に覚えのないあざがいくつもできていたりして、そこそこやばい状態になっていたりしたし、これからもたぶん、そんなことは何度でもあるんだろう。

バッグ

生き残って私たちはまた会う。必ず。絶対なんてない人生だけど、約束ぐらいはしたっていいんじゃないか。どんなことでも、生き残っていれば、いずれ、たいしたことのないことに変わっていく。何度でも、追いかけて、深追いして、傷ついて、いずれそんなことをしなくても別の情熱が、健全な情熱が生まれるのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。書けなくなるのかもしれない。そのどれが幸せで、そのどれが不幸かなんて、他人に決めさせてやるものか。私が決めることだ。

40歳は、80歳まで生きると仮定したら、ちょうど折り返し地点になる。生きていることは、当たり前じゃない。だから私たちは何度でも誰かと約束を交わし、相手と生きて再び会えることを祈る。