11月15日、雨宮まみさんが急逝されました。
何歳になろうと、周囲にどう思われようと、自分の信じる道を強く美しく生きよう、と読者を励ましてくれたこの連載に、多くの方が救われてきたと思います。
今はただ、雨宮さんのご冥福を心よりお祈りしております。
(大和書房編集部)

14自撮り、どうする!?

私の世代の人間は、若いころから「自撮り」をしてきた世代ではない。そして、自撮りが流行り始めた頃には30代後半になっていて、自撮りをやっている若い子たちはというと、アングルもキメ顔もこなれているし、アプリの使い方も上手いしで、もうぜんぜんそのテクニックにはついていけないし、自分で自分の最高値を素直に叩き出そうとする感覚そのものが、私にはなんだか恥ずかしくて「無理!」という感じだった。たまに一人で、iPhoneに向かってキメ顔なんて……。iPhoneのカメラを自撮りモードにして自分の顔を見るだけで、「ッカー!」と謎の奇声を発しては、シャッターを押せずに終わっていた。

鏡よりも、カメラは容赦ない。目線もどこにキメたらいいのかわからない。よりマシに見える角度もよくわからないし、一人で探している自分がもう恥ずかしい。それゆえに「鏡越しにiPhoneで顔を半分隠して撮る」というのが、自撮り流行初期の私と同世代の人の特徴だった。

だから、instagramが流行り始めたときも、「いや、これは無理!」と思って諦めていた。もともと写真とか下手だし、ビジュアルのセンスがないことには自信があった。そうしてモタモタしているうちに、ハッシュタグとかタグ付けとかリグラムとかやり方わかんないことが増えてくし、みんな写真もめっちゃ上手になってくし、ちょこっと添える文章も気が効いててこなれてるし、まぁやらないんだったらやらないで無視しとけばいいんだけど、気になりつつチラチラ横目で眺めていた。正直、まだそのときは「なぜ流行っているのか」にピンと来てなかった。

メガネ

その瞬間が訪れたのは、電車に乗っているときだった。原宿駅で近くに立っている女の子のiPhoneの画面が見えた。彼女はinstagramを見ていたのだが、その画面は全部、服のコーディネート写真だった。それを見た私は「!!! わかったー!!!」と叫びだしたくなった。なるほど、人のコーディネートやお店発信の商品紹介で、本当に身近なお洒落を見るものとして使ってる人がいるんだ! と思ったのだ。商品カタログとしても見れる。どこのお店に何があるのかもわかる。もちろん、そういう使い方だけがinstagramの使い方ではないけれど、それだったら見るの楽しいかも、と初めて思えたし、人がどんな服を着て、どんなアクセサリーを着けてて、っていうことは、気になるし見たい。「もうヤングのSNSにはこれ以上ついていけないかも」と思っていたinstagramへの光明が見えた瞬間だった。

それでinstagramをおそるおそる見るようになったのだけど、そしたらこれがもうまぶしくてまぶしくて仕方なかった。好きなものをバシッと撮る人、語る言葉を添える人、自分の写真をめちゃくちゃいい感じで載せてる人、その場の空気が伝わってくるような友達との写真を載せてる人……。てらいもなく「これかっこいいでしょ」「素敵でしょ」「これ大好きなの」と言うパワーみたいなのが見えて、しかもそれが特に高熱で浮かれているんじゃなくて、平熱なのだ。「あ、ちょっといまいい感じだから撮っとこう」程度で、日常の中に組み込まれている。旧世代の私にはそのこともすごく新鮮だったし、日常をうまく切り取る系の人もいれば、すごく凝ったシチュエーションでバッシバシにキメた素晴らしすぎるショットしか載せない人もいたりして、いろいろ面白くなってきてしまった。

そんなものの前で、「自撮り恥ずかしい~」とかいうちっちゃすぎて顕微鏡でしか見えないような自意識を持ってるほうが恥ずかしい、と思った。服とかアクセサリーとかをアップして「え~センス自慢? 大したことないのに」と嘲笑されるのが怖いとか、そういうのもなんか、ださい、と思った。隠していたって、センスがいいと思われるわけではないし、どうせ隠しきれないんだったら出したってあまり変わらないんじゃないか。むしろ、見せることに慣れていったほうが、写真も多少はうまくなるかもしれないし、見せ方の演出のテクニックは上がっていくんじゃないか、と思った。

最終的な気分は、「もういいじゃん」だった。ひけらかす若さもないし、財力もないし、モデルさんや女優さんのような美貌もないし、すごいパーティーに行ったとか有名人とつるんでるとかもないし、ハッとするようなセンスもないし、でも、それが自分なんだから、もういいじゃん。隠したって始まらない。そんなもん全部なくても、出して見せて「私っていいでしょう」って堂々としてる人のほうが断然かっこいいんだから、この世界に出ていこう、という気持ちになった。

バッグ

ずっと自分の見た目のことや、センスに自信がなく、自慢するのも自虐するのもかっこ悪いし……と中途半端な気持ちでいたことを、これを機になんとかふっきっていきたい気持ちがあった。私はずっと、顔写真を出すのを避けていた時期がある。ライターになってから10年間はほとんど出してない。単著が出て取材を受けるようになってから、仕方なく出すようになったけれど、それまでは「女」というだけでなんか言われるのが面倒だったし、「もう女ってことはどうしようもない事実だし、女であることなんか普通だし、別にいいじゃん」と思い切ってもなお、美醜について言われたり、服がどうとかこうとか言われるのは、やっぱり気が滅入るもので、自分の写真や、自分の撮った、自分の生活が見える写真をアップする、ということをポジティブな意味で捉えられたことがなかった。これを機に、それができるかもしれない、と思った。

最初はまぁ、もう、そりゃあ下手くそだったし、がんばって演出しようとするあまり変な感じになったりしていた。だいたい、自撮りっていうものをどんなスタンスで発信すればいいのか、やっぱりそこに照れもあって、微妙な感じだった。

化粧品

転機が来たのは、友達と一緒に台湾に旅行に行ったときである。台湾のわりとゴージャスなデパートに行ったら、入り口に素敵な花が飾ってあった。そこが記念写真スポットみたいになっていたのだが、中華圏の観光客と思われる人たちが、若い人たちから老夫婦まで、そこで三脚を立ててしっかりポージングして、納得できる一枚が撮れるまで、じっくり何度も撮り直していたのである。美男や美女ではない普通の人たちが、自分のベストショットを探す。撮影している側もいい写真を撮ろうとする。日本だったら「デパートの入り口でwww」と笑われるような光景かもしれない。でも、キメッキメにポーズを決めるその人たちは、まぶしかった。急にカーッと目が覚めた感じがした。こうでなきゃ。人は、こうでなくちゃ。自分を当たり前に好きで、楽しんでる人って、こうでなくちゃ。私はそこでいきなりポーズを取り始めた。友達は「まみが覚醒した!」と言って写真を撮りまくってくれた。あの見知らぬ老夫婦が、私を変えたのだ。

そこから、徐々にではあるが、これいいなと思う瞬間に写真を撮ることにためらいが減っていった。そして、そういう写真をアップしていると、友達も「あ、撮られるの嫌じゃないんだ」と判断してくれて、より面白い写真を撮ろうとしてくれるようになった。私から「この背景かっこいいから撮って!」と頼むこともあるし、自分がいいなと思う瞬間があれば「撮ろうか?」と言って友達を撮ることもある。友達の写真が、自分に見えている通りにチャーミングな表情で撮れると、嬉しい。アップするしないに関わらず、嬉しい。

慣れてくると、自分の顔なんて、ただの顔じゃん、と思えてくるようになった。そりゃあひどい顔に写るときもある。でも、自分にひどい顔があることも知ってるし、それを普段見せながら生活しているわけで、そんなのたいしたことじゃない。人に見せる写真ぐらい、できるだけ綺麗にしたいっていうのは、お化粧したり服を着たりするのと同じぐらいのことだ、という感覚になってきた。したくない人は、やらなければいいし、やる必要もない。ただ、私はしたかった、というだけ。

私は人に良く見られたいし、センス良く見られたいし、それを隠すことのほうが、見せることよりもかっこ悪いと思った。

本当にそれだけなのだが、写真を撮ったり撮られたりに慣れてきた今、「自分の人生は自分が主役である」という意識が強くなったのを感じている。自分の人生で自分が主役なんて、頭ではわかっていたけど、主役らしいふるまいができなかったし、客観的に考えたら、とても自分が主役なんて……とどこかおどおどしていた。そのおどおどが抜けていった。不思議なことである。

人は、ナルシストのことをバカにするし、こっけいだと笑うけれど、同じバカなら酔いしれた者のほうが人生楽しいんだ、ということを、私はinstagram及び自撮りや友達に撮ってもらう写真から教わった気がしている。