菜の花食堂のささやかな事件簿 碧野圭

MENU2 カリフラワーの決意 その3

それから、またしばらくして、花蓮ちゃんがやって来た。

先生の方を見て、じっとしている。
「あら、また来たの? また、このお酢がほしいのかな」

花蓮ちゃんはうん、とうなずいた。
「そう。だけど、これでは足りないんじゃない?」

花蓮ちゃんはびっくりしたように目を見張った。
「もしよければ、おばさんが手伝ってあげる。もう一人の子をここに連れて来て」

花蓮ちゃんは先生の言葉に驚いて、動けなくなっている。
「大丈夫、おかあさんたちには内緒にしてあげるから」

それを聞いて、花蓮ちゃんはちょっと考え込んだが、すぐに黙って下へと降りて行った。
「どういうことなんですか?」

私が先生に尋ねると、先生はにこにこして答えた。
「まあまあ、すぐにわかるわ」

やがて花蓮ちゃんに連れられて、もうひとりの女の子がやって来た。こちらの子はフリルがたくさんついた白いワンピースに、白いリボンで髪を結っている。子どもとしたら、せいいっぱいのおめかしだろう。

だが、転んだのだろうか、その白いワンピースの裾が砂と血液で汚れている。
「まあ、たいへん。こっちにいらっしゃい」

先生は、隣の部屋の方に子どもたちを連れて行った。そちらには関係者以外立ち入り禁止の洗面所がある。私も付いて行きたかったが、ちょうどお客さまが現れたので、接客をすることにした。

お客さまと談笑していると、先生がちょっと顔を覗かせ、
「ちょっと下に行ってくるわ」

とだけ告げて、階段を降りて行った。女の子たちも一緒である。

お客さまが瓶詰を買って部屋を出て行くと、私は窓から下を眺めた。先生が、花蓮ちゃんのおかあさんともうひとりの女性に、何か説明をしているようだった。上から見ていると、しきりにもうひとりの女性は恐縮している。何か先生に謝っているようだった。それからすぐに先生が戻って来る。
「どうしたんですか?」
「花蓮ちゃんのお友だちの美咲ちゃんがね、転んでお洋服を汚してしまったの。それで、私が洗って差し上げたのよ」
「はあ」
「それだけのこと」

私はキツネにつままれたような気持ちだ。
「先生は、美咲ちゃんが洋服を汚していたのを知っていたんですね。それで、花蓮ちゃんに連れて来なさいっていったんでしょう?」
「まあ、そういうことね」
「でも、どうしてわかったんですか? ここから見ただけでは、そこまではわからなかったでしょう?」
「ええ。だけど、花蓮ちゃんがお酢がほしい、って言ってたでしょう」
「そうですけど」
「なんでお酢が欲しいのかな、と思ったの。すっぱいのは苦手だと言うのに、酸味の強い方の選んでいたから、飲みたいわけではないのね。だとすると、別の目的だろうと思ったの」
「別の目的?」
「ええ。花蓮ちゃん、最初に『お酢をください』って言ったのよね。つまり、お酢を知っていたわけ。料理をするわけでもない女の子にとって、お酢はなんのために必要か、と考えたの」
「料理以外に使う?」

なんだろう。お酒なら消毒ってことも考えられるけど……。
「あ、そうだ。お掃除の汚れ落としに使うんだっけ」
「そう、その通り」

正解、と言うように、先生はにっこり笑った。
「花蓮ちゃんのおかあさんは、おそらくナチュラル志向なのね。お掃除の時も、合成洗剤は使わず、お酢や重曹を使っているんでしょうね。だから花蓮ちゃんはお酢のことを知っていたの。それで、美咲ちゃんがお洋服を汚して困っているのを見て、お酢をかければ落ちると思ったのよ」
「ああ、なるほど。……でも、血の汚れは、お酢で落ちるんでしたっけ?」
「いいえ。お酢で落とせるのはアルカリ性のもの。水垢とか石鹸のカスなんかには効果を発揮するけど、血液はほぼ中性だし、役には立たないわ。だけど、花蓮ちゃんはそこまでのことはわかってなくて、お酢で汚れが落ちる、と思い込んでいたのね」
「ああ、なるほど」
「美咲ちゃんのおかあさんは、ちょっと厳しい方みたいね。白いワンピースを着たいと美咲ちゃんが言ったら「絶対汚さないで」と言ったらしいの。それなのに転んで汚してしまったから、困ってしまったのね。それを知った花蓮ちゃんが、なんとかしてあげたい、と思って、ここのお酢のことを思いついたの」
「そうだったんですか」

花蓮ちゃんのおかあさんは、リネンの服を着て、手編みの籠を抱えていた。この辺りに多い、典型的なナチュラル志向のスタイルだ。掃除もお酢と重曹を使うタイプ、というのも納得できる。
「まず、足を洗って傷口に絆創膏を貼ったわ。たいした怪我ではないけど、少し血が出てしまってね。裾のところを汚してしまったの」
「それで、血液は落ちたんですか?」
「ええ、とりあえずつまみ洗いをしたわ。血液が固まる前にぬるま湯で洗う、これがいちばん汚れが落ちる方法だから。今回はちょっと染みが残ってしまったから、おかあさんには漂白剤で洗うことをお勧めしておいたの。そうでなければ、クリーニングに出すようにって」
「それで、美咲ちゃんのおかあさん、怒ってました?」
「そうでもないのよ。それより、怪我したことの方を心配されていて……。美咲ちゃんに、服を汚すなって言い過ぎたかも、って反省していらしたわ」
「ああ、よかった」

それはまっとうなおかあさんだ。厳しくても愛情のある人に違いない。
「子どもは子どもなりに考えたんでしょうけどね。汚したらダメってことばかり頭に残っていたんでしょう。おかあさんとしたら、服の汚れよりも、娘の身体の方が大事なのに」
「そうですね。子どもならでは、ですね」

私は花蓮ちゃんの緊張した顔を思い出した。勇気を奮い起こして、お酢をください、と言ったのだろう。友だちを助けたい一心だったか、と思うと自然と笑みが浮かんでくる。
「だけどね、子どものやること、って笑えないわね。おとなだって、時々何が大事か、見失うこともあるから」
「というと?」
「おとなは『何をやるべき』っていう義務感が強いでしょう? そうしてしばしば自分の感情を押し殺してしまうことがある。たとえば、会社には毎日行かなきゃとか、いい社会人でいなきゃ、という気持ちが強すぎると、仕事が辛い、会社には行きたくない、という気持ちを押し殺してしまうこともある。こころが悲鳴をあげているのに、それを無視して、倒れるまで気づかないとか」
「ああ、そうですね。会社の先輩で、そういう人がいました。すごく頑張っていらしたんですけど、ある日突然、会社に来なくなってしまって。いつもにこにこされていたので、そんな風に辛い気持ちでいらっしゃったなんて、誰も気づかなかったんです」

それを聞いて、先生はふっと溜息を吐いた。
「もしかしたら、本人も気づいていなかったかもしれないわ。おとなはしばしば自分の感情にふたをしてしまうから」
「感情にふたをする?」
「だって、辛いとか苦しいと認めてしまったら、会社にいられなくなるでしょう。だけど、会社を辞めたらたいへんだ、と頭で思っていると、辛いという感情の方を無視してしまう」
「でも、それも大事じゃないですか? みんなが感情の赴くまま行動していたら、いろんなことが立ちゆかなくなる」

社会人としてやっていくには、多少のがまんは必要だ。自分がやりたいようにしていたら、だらだらと怠けてしまう。前の会社を辞めた後の私がそうだった。何もする気になれなかったのだ。先生と出会わなかったら、あのままだらだらダメな状態が続いたかもしれない。
「それはその通りよ。好きなことばかりできる人間はなかなかいない。だけど、ほんとうに大事な感情は手放しちゃいけないわ。こころが喜ぶことをしていれば、面倒なことも面倒ではない。ひとつひとつのことが、意味のあることになるからね」

先生の言葉にはっとした。

私のいまの状態をぴったり言い当てているからだ。

食堂の仕事は辛くない。むしろ、こういうことをやりたい、ああいうこともやりたい、って次から次へとアイデアが出てくる。手間は掛かるけど、それを面倒だとは思わない。菜の花食堂がよくなっていくための大事なプロセスだと思っているから。

それを仕事にしたい。その気持ちははっきりしている。

だけど、ほんとうにできるだろうか。安定した正社員の道を選んだ方がいいんじゃないだろうか。そういう気持ちがあるから、一歩が踏み出せないでいる。

たとえ正社員になれたところで、私はいまの仕事をほんとうにやりたいのだろうか。一生続けたい仕事なのだろうか。

もし、ほんとうにそうだったら、宅建を取るとか、いまの仕事に役立つ勉強をしているはずだ。だけど、私の本棚にあるのは、カフェ経営の本とか、起業の勧めとか、そんなものばかりだ。今の会社で正社員になったとしても、いずれは独立したい、と思っている。自分の気持ちは、はっきりしているではないか。
「ただいま戻りました」

瓶詰の追加を取りに行っていた香奈さんが、ようやく戻って来た。それで、私の考えは中断された。
「遅くなってすみません。自転車が途中でパンクして、結局歩いて戻ってきました」
「あらら、それはたいへんね」

香奈さんは、追加で三〇ほどの瓶を抱えてきた。これから閉店まで三時間ほど。これをできるだけ売って、帰りの荷物を減らさなきゃ、と思う。
「あれから売れましたか?」

香奈さんが私に聞く。
「ええ、あと一瓶ずつしかないから、グッドタイミングよ」
「よかったー。これだけ売れたら、成功ですね。次に繋がりますね」
「そうそう、忙しくて話し忘れていたけど、さきほどまで隣にいらしたパン屋さんがね……」

私は二人に、パン屋で瓶詰の取り扱いをしてもらえるかもしれない、という話をした。
「それはすごいわ。さすが優希さん、もう注文取ってくるなんて」

香奈さんが褒めてくれるので、私は慌てて否定する。
「私の手柄じゃないですよ。先方から自主的に言ってくださったんだし。たまたまですよ」
「たまたまってことはないわ」

先生がにこにこしながら言う。
「相手の方はあなたとお話しして、あなたという人間を信用できると思ったから、そう言ってくださったのよ」
「そうでしょうか。やっぱり味がよかったからじゃないですか?」
「もちろん味も大事だけど、それを売る人の人柄も相手を動かすのよ。両方なければ売れるものにはならないわ」
「そうよ、優希さんがいてこそ、よ。優希さんがいればどんどん新しい仕事も広がっていきそうな気がするわ」

ふたりが褒めてくれるのは嬉しい。先生も香奈さんも、ちゃんと私のいいところを認めてくれるのだ。
「ともかく香奈さんの持ってきてくださった分、売り切りましょう」

照れくさくなって、そう言ったが、嬉しい気持ちがそれまでの疲れを吹き飛ばしてしまうようだった。
「いらっしゃいませ」

新しく来たお客さまに、私はいつもより大きな声で挨拶をしていた。


「来週から、毎週……ですか?」

週明け早々、私は課長に会議室に呼び出されていた。
「ああ、そうなんだ。君には申し訳ないけど、いまいろいろと大変な時期だし、ほかのスタッフも、休み返上で頑張っているから」

課長からの要望は、それまでの週休二日制をやめて、一日だけにしてほしい、ということだった。
「もちろん、その分の日当は支払うし、君については昇格も考えているから」

ここで昇格を持ち出すのはちょっと卑怯だ。本当かどうか、確かめようがないし。
「それで……週休一日はいつまで続くのでしょうか」
「そうだなあ……いまのところ、いつまでという約束はできないけど、新しい人員が補充されたら、元に戻ると思うよ」

しかし、新しい人員を募集している、という話はない。ほかの派遣の仲間とも話をしたが、減った人数でできるなら、このままで続けるつもりではないか。会社の景気があまりよくないから、人員削減をもくろんでいるんではないか、と勘ぐっている。
「ですが……私の場合、二日の休みでやることがあって……」
「ああ、そういえばなんとかいう食堂でもバイトしてるんだっけ? そっちの時給よりもうちの方がいいんじゃない? どっちにしても、うちで社員になったら、アルバイトは禁止だから、そっちを辞めてもらわなきゃいけないし」

アルバイト禁止。

そうか、こっちの社員になったら、そういうことになるのか。

課長が社員昇格を真面目に検討しているらしい、という事実よりも、そっちの方が重く感じられた。
「申し訳ありません。私、休みを減らす訳にはいきません」
「えっ、どうして?」
「私、いずれは食堂の仕事に専念するつもりなんです。今はその準備をしているところなので、空いた時間をなるべくそっちの仕事に充てたいんです。だから、これ以上出社は増やせません。申し訳ありません」

私は深々と頭を下げた。
「じゃあ、こちらでの昇格の話もなしになるけど……それでも、いいの?」
「はい、お心遣い感謝します。だけど、もう決めていましたので」

私は課長の目をまっすぐ見た。課長はそれを受け止めきれないようで、わずかに視線を逸らした。
「そうだったのか。……残念だけど、それなら次の更新はしないつもりなんだね」

派遣社員の次の契約は二ヶ月後だった。
「はい、すみません」

自分から言ったというより、言わされた、という感じだった。辞めるのは半年後とか一年後とか、もう少し先のつもりだった。菜の花食堂の売り上げをもう少し上げてからと思っていた。

でも、言ってしまったら、気持ちがすっきりした。
「わかった。残念だけど、仕方ないね」
「はい、いろいろありがとうございました」

慰留もしてくれないんだな、とこころがちくん、と痛んだ。

しかし、それもほんの一瞬のことだった。

これで食堂の仕事に専念できる。その嬉しさの方が勝っていた。角を曲がったらいきなり視界が開けたようで、先がすっと見通せるような気がした。

いろいろたいへんかもしれないけど、きっとなんとかなる。なんとかしてみせる。

新しいステージに上がる喜びに満たされて、私の胸は弾んでいた。

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