大和書房 WEB限定連載

言葉が鍛えられる場所 平川克美

第12回 戦争前夜の静けさ


呟きと囁き

2011年の東日本大震災と、原発事故のあと、ツイッターのタイムラインに流れてくる「呟き」は、それ以前とでは全く様相が異なっていた。

震災以前のツイッターは、お気楽な呟きをネットワークするソーシャルメディアだった。レストランで撮影した料理に、自慢気なコメントを付ける。

飼っている猫がどうした。

どこそこのラーメンが旨い。

こんな駄洒落を思いついた。

そして、

時々政治的な書き込み。

140字という制限のなかでは込み入ったことは書けない。当たり障りのない言葉を積み上げながら、ゆるいネットワークを作っていく。そのゆるさが、ユーザーに安心感を与えていた。140文字とは、ツイッターというソーシャルメディアを特徴付ける絶妙な文字制限でもあった。

お気軽で、あまり深刻な問題や複雑な問題については触れず、どうでもいいような、揮発性の強い情報が素早く交換される。それまで、字数制限のなかったブログでは、しばしば議論が白熱し、誹謗中傷のたぐいで「炎上」していたことを考えれば、ツイッターは陽気なメディアだった。しかし、あの日を境にして、食べ物自慢や、駄洒落といったお気軽なツイートは影を潜め、もっぱら放射能情報、福島第一原発の状況、政府発表への疑義、原発村の告発といった深刻なツイートが次から次へと流れだした。

そこにはもちろん、反原発、反政権の意見と正反対の、原発推進、政権支持の意見があり、両者はときに激しくぶつかり、罵りあう光景があちこちで見られるようになった。

明らかにツイッターという「コミュニケーションの場」自体が変質した。

3.11以降、お気楽な呟きは「そんなことを言っている場合じゃないだろ」という暗黙のプレッシャーを受けるようになった。代わって、怒気や嫉妬や嘲笑が入り込み、品位を疑われるような言葉が、目立つようになった。

そういった激しい言葉遣いの方が、リツイート率や、フォロワー数を増やすことに繋がるということも、この傾向に拍車をかけたのだろう。

そのうち、これまでソーシャルメディア内ではあまり聞いたことのないような「反日」「売国奴」「鬼畜」といった言葉が、恫喝のように使われる光景が現れた。

それらに対抗する言葉も、剣呑さを増しているようだった。

売り言葉に買い言葉。

まことに、悪貨は良貨を駆逐するという俚諺そのままの、言語の退行現象を見る思いがする。


一方で、3.11以降も、それ以前のスタイルのまま、頑なと言えるほど些事だけを、選択的に書き続けている方もいる。

もちろん、そこにはもともと「世界」の出来事には無関心で、日常的な世界の中でしか生きていない即物的な生き方を選択しているものが含まれている。

しかし、そういった生き方とは正反対に、つねに「世界」に対して強い関心を持っているがゆえに、「世界」について語ることを抑制するということもある。

たとえば、どのように「世界」が動こうと、「些事こそが大事」とでもいうように、庭の草花についての記述を続けている鈴木志郎康のような詩人がいる。わたしはそこに、むしろ精神の強靭を強く感じてしまうのである。

たとえば2015年1月31日。

「アマリリスの蕾が全身を現した。1月31日。昨日送った原稿を「現代詩手帖」の編集人の亀岡さんからメールが来て理解して優しく受け取って貰えたのでほっとした。」

2月1日

「アマリリスの花が開き始めた。2月1日。昨日は長田さん、薦田さん、辻さんが来て改造工事する部屋のものを移動をして貰い、長田さんが作ってきた煮物を食べながら歓談した。大いに助かって幸せな気分になった。嬉しく感謝。」

2月2日。

「アマリリスの花が一つ咲きもう一つが開き始めた。2月2日。いよいよ今日から車庫の改造工事が始まる。麻理がいろいろと人の集まれる場にしたいというのだ。」

今年80歳になるという鈴木志郎康は、こんな呟きをツイッターに毎日のように書き込んでいる。呟きには成長していくアマリリスの花の写真が添えられていた。


「世界」は、シリアでイスラム過激派の人質となったジャーナリストの死をめぐって、騒然としており、日本政府の姿勢に対して賛否の応酬が続いている。

政府は、アメリカが主導する「テロとの戦争」に、日本のこれまでの姿勢を変えて、イスラム過激派を空爆する有志連合に合流する一歩を踏み出そうとしている様子である。この状勢のなかで、日本がこれまでの平和主義を守っていけるのか、かなりきわどい情勢が続いている。

それでも、鈴木志郎康は「そういう話題」に触れることはない。

日々、庭の草花の情景と、その日あったことを日記風に綴るだけである。

この詩人に、「世界」に対する関心がないわけではない。

むしろ、「そういう話題」に触れないことが、「世界」に対する関心の深さを暗黙の裡に語っているようにも思える。

鈴木志郎康が、他者のツイートを、リツイートしているものの中には、イスラムのテロ関連のものがいくつも出てくる。

それでも、この老詩人は、意識的に、意志的に自分に対して政治的なツイートを禁じている。

鈴木志郎康が、最近発表した詩の中で、わたしが推測するしかなかったこの詩人の内面が、明示的に表現され、政治的な立ち位置に関しても、かなり明瞭な言明がなされているのを知ることになった。

それを表現という、
自己の表現による実現と思い込み、
「極私」っていう
個人の立場を現実に向き合わせる考え方に到ったってわけ。
それは、戦後の復興から、
経済優先の世の中に合わさった
マスメディアの膨張の、
有名人が目白押し世の中で、
どうやったら自分を保つことができるかってことだった。
表現だから自分の名前を目立たせたいが、
ヒロイックな存在になるのイヤだっていう
矛盾を生きてきた。
やっぱり、
素直じゃないね。
(『わたしは今年八十歳、敗戦後七〇年の日本の変わり目だって、アッジャー』より抜粋)

生活の中の、微細な感覚に意味と価値を読み込むような詩を書いてきた鈴木志郎康が、八十歳に差し掛かって、衒いもなければ、けれんもない素直な言葉を紡ぎ出している。

こういうことを、形而上学的な思想として書くことは難しいことではないかもしれないが、それを自らの経験として貫き通していくことは容易なことではないだろう。もはや、大家といってもいい詩の世界の重鎮が、自らの身体を使ってそれを表現している。

コロキアル(口語の)で軽妙ともいえる文体とはうらはらに、詩の全体から滲み出てくるメッセージは、後続への遺言ともいえる真摯なものである。

これらの言葉は大きな声で語られることはない。

ツイッターというソーシャルメディアの中で語っても、この種の声は届くことがない。

言葉について深く考えてきたもの、あるいは言葉を丹念に読み込んできたものだけが、聞き分けられるような小さな声にふさわしい場所が、鈴木志郎康にとっての詩の空間だということだ。

わたしは、この老詩人の囁きに深く同意する。

呟きではなく囁き。いや、本当は反対である。

ツイッターで、大文字の声で書き込まれているのは、誰かに聞いてもらいたいという囁きだとすれば、詩の世界で鈴木志郎康が試みているのは、自分と、少数者への呟きそのものなのかもしれない。

こういう詩人が詩を書き続けていてくれることをありがたいとおもう。

しかし、同時に、わたしには、この詩人がこういった境地を言葉にすればするほど、それが、なんだか戦争前夜の予兆を含んだ情景のように思えて、不吉な予感がしてしまうのである。

平和憲法の元で、
オレとしてへそ曲がりを通してきたわたしには、
今更、
「憲法を変えていくのは自然なことだ。私たち自身の手で憲法を書いていくことが新しい時代を切り開くことにつながる」
なんて言ったという安倍晋三首相の言葉には乗れない。
「日本を取り戻す」
なんて止めてくれ。
これが、
敗戦後七〇年日本の変わり目って言うんじゃ、
わたしとしては、
アッジャー、だ、
ゴリゴリって
区切りをつけて、
若い連中と、
詩と、
映像とを
語り合って、
友愛を深めたい、
と思っている八十歳っていうわけざんすね。
(同じ詩から抜粋)

怒号から囁きに変わる時

戦争前夜の不吉な予感。

鈴木志郎康は、そんなことを意識して言葉を紡いでいるわけではないだろう。

不吉な予感を感じ取るのは、わたしの方である。

同じような予感を、映画の中に感じたことがある。

いや、それは予感ではなく、不吉の前兆そのものであり、その映画に続いて「世界」がどのように歪んでいったのかをわたしたちはすでに知っている。

その映画とは、この間何度も見直すことになった小津安二郎のサイレント時代の作品のことである。

松竹蒲田が制作した映画『大人の見る繪本 生まれてはみたけれど』は、小津安二郎の昭和七年の作品である。小津にとっては、昭和二年の『懺悔の刃』から数えて二十三本目の作品であり、小津安二郎の名声を決定づけた、無声映画時代の代表作といってよいだろう。

この映画が作られた昭和七年(1932年)という年は、五・一五事件のあった年として記憶されているはずである。

しかし、実際のところ当時のひとびとがどのような生活をし、どのような思いで日々を送り、どのような空気が時代を覆っていたのかについて、リアルに思い浮かべるのは難しい。八十年の時間がそれから経過しているのだ。いったい、五・一五事件のあった時代とは、どのような空気が流れていたのだろうか。

わたしたちは、五・一五事件が、海軍将校らによる犬養毅首相暗殺事件であったと、中学校の歴史の授業で教えられている。しかし、何故それが引き起こされたのかについては、今は研究者以外には深くは顧みることはない。この事件の発端を探っていくと、もともとは前総理の若槻禮次郎を殺害する計画であったが、その狙いの本筋は血盟団事件に続く「昭和維新」であり、テロ(天誅)によって一挙に復古的な体制の復活を狙うものであったことがわかってくる。

その三年前、昭和四年(1929年)のニューヨーク証券取引所における株の大暴落に端を発した世界恐慌は世界を混乱に陥れた。日本も例外ではなく、当時の主要産業のひとつであった生糸輸出は落ち込み、深刻なデフレが続き、失業の増加、相次ぐ企業倒産などの社会不安が日本全体に広がって行った。このとき、大蔵大臣として登場してきたのが高橋是清である。高橋はデフレ解消、金融恐慌鎮静化のために、超積極財政政策を行う。二百円札の大量発行や、日銀の公債引き受けによるリフレ政策などである。一方、満蒙に政治的な覇権を強めていた日本軍は、昭和六年の柳条湖事件に端を発して満州全域を占領する挙に出、中華民国と武力衝突する。

昭和七年制作の小津安二郎の『大人の見る繪本 生まれてはみたけれど』には戦争の影はほとんどうかがえない。わずかに、主人公の兄弟が通う学校の教室の壁に「爆弾三勇士」という揮毫が掲げられているのみである。

本作品においてはそれ以外には全くと言ってよいほど戦争の影を見ることはできない。むしろ、そこにあるのは現代のわたしたちの生活にも通じる、つつましい小市民の生活であり、都市化がすすみつつあった戦前蒲田周辺に暮らすサラリーマン家庭の牧歌的ともいえる一情景である。小津は不安な政治状況の中で、小市民的家族の生活に愛情のある視線を注いでいる。そこには、小津安二郎という映画監督の価値観が反映されているように思える。映画の最後のほうで、「大きくなったら何になりたいか」と問う父親に、子どもは「中将」と答える。民主化の進展と、都市郊外の発展、近代化の背後に、微妙に戦争の影は迫ってきている。牧歌的な都市郊外の時間が静かに流れるこの作品に、どこか不思議な緊張感が感じられるのは、わたしたちが、その後に続く大戦の悲劇を知っているからであろうか。


わたしは、小津のこの作品を観て、戦争前夜とはかくも物静かなものであったのかと、あらためて教えられた気がした。

鈴木志郎康という詩人の作品と、小津安二郎の作品を思い浮かべながら、わたしはひょっとしたら、今のこの平和な日本が、戦争前夜なのではないのかといった不安に駆られる。

大きな声で笑い、語り合い、ときに怒鳴り合っていた人々が、気が付けば、声を潜め、囁き合うようになり、自らに向けて呟きはじめる。

そうなったときは、もう後戻りができないところにわたしたちは入り込んでしまっている。


災厄はいつも忍び足でやってくる。多くの者はそれに気が付かない。ただ、慧眼のものだけが、平時の光景がいつもよりも陰影深くなっていることを感じとる。

父親の介護の最中、死がすぐ目の前に近づいているのを知ったとき、わたしのような凡庸の目にも、自然の光景がいつもよりもその陰影を深めているように見え、何気ない日常の光景が愛おしく思えたのをよく覚えている。


いまが、これからやってくる災厄の前夜であり、わたしも含めて多くのものが、それに気がついていないのかもしれない。

微細な変化を嗅ぎ分けるものだけが、災厄の前兆を、独特の仕方で言葉にしているのかもしれない。

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