大和書房 WEB限定連載

言葉が鍛えられる場所 平川克美

第4回 沈黙の語法について


沈黙と測りあえるほどの言葉


最近、終戦後シベリア抑留から帰還した方とお会いする機会がありました。その方は浅草にあるお寺の僧侶なのですが、抑留者は帰還後もロシア帰りということで差別的な目で見られて大変であったと言葉少なに語ってくれました。第二次大戦を生き延びた方たちは相当な高齢になっており、直接話を聞く機会も減っています。もう何年かすれば、戦中派の話を聞く機会は永久に失われてしまうことになるでしょう。

3・11の東日本大震災の後、わたしは戦中派の方の話を聞きたいものだと思っていました。なぜなら、かれらこそは東京が壊滅的な打撃をうけた関東大震災や、東京大空襲という経験をしてきており、そういった災厄が人間をどのように変えていくのかについて実感を持って語ることができると思うからです。

わたしたちは、3・11の震災と、そのときに起きた福島第一原子力発電所の事故について、テレビや新聞が報じる話を毎日毎日聴いたり読んだりしてきたわけですが、政治家の言葉は信ずることができず、評論家や識者といわれる方々の語り口にもどこか胡散臭いものを感じてしまうのを禁じ得ませんでした。

この災厄に関しては、戦後の日本の原子力政策にまつわる利権の問題が常に影を落としています。原子力村といわれる網の目のような利権の構造は、事故が起こるまでは正面切って取り上げられることはありませんでした。

しかし、震災と原発事故との関連や、放射能被害の影響などについて語っている評論家や、識者が東京電力から直接、間接に利益を供与されているケースがあったことが明らかになるにつれて、わたしたちは疑い深くならざるを得なかったといえるでしょう。

政治家も、識者も、評論家も、実際のカタストロフイーを体験しているわけではありません。今回の災厄に関して言えば、被害の直接の当事者であるよりは、間接的な加害者である可能性の方が高いのです。

わたしが本当に聴きたいのは、それを語る人たちが、自らの体験として己の身体を賭けた場所から発する、そのような言葉でした。


シベリア抑留者であったそのお坊さんが仰るには、シベリア体験というのは語り難いものであり、抑留者は一様に口が重いということでした。

その理由はいくつもあるのでしょうが、わたしはそのお話を聞きながら、ひとりの詩人がシベリアの地で体験したことと、かれが日本に帰還してからのことについての手記を思い出していました。

かれは詩人でした。

しずかな肩には
声だけがならぶのでない
声よりも近く
敵がならぶのだ
勇敢な男たちが目指す位置は
その右でも おそらく
そのひだりでもない
無防備の空がついに撓み
正午の弓となる位置で
君は呼吸し
かつ挨拶せよ
君の位置からの それが
最もすぐれた姿勢である
『サンチョ・パンサの帰郷』所収、「位置」の全文

まだ二十歳の頃だったと思う。わたしは、その詩人の詩集『日常への強制』を渋谷の宮益坂にある古本屋で手に入れました。家に戻り、最初のページを開いた時、言葉にはできない種類の深い衝撃を受けたのを覚えています。

この詩に出てくる言葉にはなにひとつ不明なものがありません。日常的な言葉が並んでいるだけです。

にもかかわらず、この詩はとてつもなく難解でした。

ひとつには、あまりに抽象度が高くて、この詩を理解するには、行間にどれほどの説明文を放り込めばよいのかと思うほどに、散文的な言葉はそぎ落とされていたからです。

削り取られ、もうこれ以上は削ることのできないような痩せた言葉です。

もうひとつの理由は、この詩人の出自についてわたしは何の知識も持っていなかったということがあります。

もちろん、詩作品は、その作品自体で完結しており、作者の来歴や性格といったものは場合によっては読解の邪魔になるものです。

それでもわたしは、この詩人が過剰に自己を言葉の背後に隠蔽しているような印象を受けたのです。ありていにいえば、読者は突き放されているわけです。

なぜ、ここまで自分を隠さなければならないのか。

なぜ、この詩集が「サンチョ・パンサの帰郷」と題されているのか。

なぜ、「位置」をその冒頭に持ってきているのか。

よく分からないままに読み進めていったのですが、次第にこの詩人の独特の語法が何処から来ているのかが気になるようになりました。

わたしが読んでいたのは昭和四十五年に発行され、翌年第二刷版となった構造社の本でしたが、詩集の部分の最後に「三つのあとがき」という奇妙な文章が挟まれて、その先には四つに章分された評論が続いていました。

そこまで読み進めて、漸くわたしにも、この詩人が試みていることが何であるのかが少しずつ理解できるようになりました。

音楽家である武満徹には、『音、沈黙と測りあえるほどに』という名著がありますが、この詩人が試みなければならなかったのは、まさに沈黙と測りあえるほどの言葉を紡ぐということでした。

そして、誰にでもわかる平易な言葉によって、しかし容易な理解を拒絶する抽象的な構築物を作り出すこの詩人の語法にわたしは、すっかり打ちのめされてしまったのです。


埋めがたい断絶の前で言葉は何を語れるのか


なぜ、かれはこのような語法を選んだのか、その理由は同書の最後の部分に収められた「肉親へあてた手紙」の中で明らかにされます。

この書簡は、公表を意図して綴られたものではありません。著者によれば、「たまたまノートのなかに写し取ってあったものを、ノートと共に公表された」ものです。

この書簡は、シベリアから帰還した著者と肉親との間に起きた、「墳墓」と「儀式」に関するいざこざに対しての、著者からの最初で最後の回答であり、一種の絶縁状のような形式になっています。

書簡の中に、何度でも噛みしめたいような印象的な言葉があります。

どうぞ、ここにのべた内容の中で理解できるものは理解し、理解の困難なものは、そのままのかたちにしておいて下さい。自分の理解の領域にないものを、ただちに許すべからざる異質なものとして拒むという態度をおとりにならないで下さい。

一体、このシベリア帰還兵に何が起き、手紙には何が書かれていたのでしょうか。

戦後の敗戦処理の中で、極東軍事裁判が行われ戦争犯罪人が特定されたことは誰でもが知っている事実ですが、このとき「闇取引」的な戦犯引き渡しが行われてもいたことはあまり知られてはいませんでした。しかし、実際には、中央アジア軍管区司令部付の軍法会議において、多くの人間がシベリアでの重労働を課せられることになったのです。極東軍事裁判における戦犯は囚人として人間らしい扱いを受けたのに対して、「闇取引」において戦犯とされたものたちは、誰に知られぬままに、最も過酷で、非人間的な扱いを受けることになります。

詩人は、書いています。

「ソ連の囚人たちの間では、隠語で「屠殺場」と呼ばれている最低の流刑地が二つあります。一つはカムチャッカの北西から北極海に至るコルイマ地帯、もう一つはバイカル湖の西側、アンガラ河にそう無人の密林地帯で「バム」と呼ばれています。」

詩人は、そのバムへ送られ、生死をさまようような重労働と、過酷な環境のなかを生き抜き、スターリンが死んでからの最初の特赦でかろうじて日本へと帰還することになります。

この間の過酷な体験について、自分は「犯罪者」ではないが、いずれは誰かが背負わされる順番になっていた「戦争の責任」をともかくも自分が背負ったのだと思おうとします。

自分の責任ではないものを自分の責任として引き受ける。

おそらくは、戦時中に偉そうにしていた軍人たちのポジションから最も遠いところに、自分の位置を定めたということです。いや、そうでも考えなければ、シベリア抑留というどう考えても不条理な体験について、いかなる納得もすることができない。

実際、現地でともに重労働を行った囚人たちのうち、自ら身体を傷つけ、自ら死を選び、あるいは精神に変調をきたすものは数知れなかったようです。

そのような想像を絶する体験を潜り抜けて帰還した著者は、「よくぞ帰った」「ごくろうさん」という言葉を期待しながら、先祖の墓のある伊豆へと戻ります。

しかし、そこで待っていた肉親が発した言葉は意外なものでした。

肉親のひとりが、居ずまいをただし、かれが何も言葉を発しないうちに、こう言います。

1.著者が「赤」でないことをはっきりさせて欲しい。「赤」ならこの先、付き合えない。

2.身寄りのないお前の親代わりにはなれるが、それはあくまで精神的なものだ。

3.祖先の供養をしなければならない。

正確な引用ではありませんが、こういう言葉をかれに突き付けたのです。

これは、ひとり著者だけの体験ではありませんでした。

シベリア帰りは「赤」だという風評は、日本中のどこにでもあったようです。「赤」、すなわちロシア共産党の洗礼を受けた危険人物ということで、職を解かれたり、親戚から縁きりされたり、村人から白い目で見られたりしたわけです。

戦後の、シベリア帰還者は、敗戦、シベリアでの過酷な労働、帰還後の危険人物扱いと、三度にわたって人間性を踏みにじられるような体験をしてきたことになります。

このときの著者の絶望感は、戦争を知らないわたしにも、よく分かります。そして、その後、著者は言葉の少ない、陰鬱な人間(外見からはという留保をつけてもよいですが)になるのです。


絶望が紡ぎだす言葉


ここまできて、わたしたちは、この詩人が何故、言葉の少ない、いわば「沈黙の語法」というものを選択したのかがわかるように思えます。

この詩人の体験のなかに、人間の社会が当然付与されるべき条理の欠片(かけら)も見当たりません。

それでも、かれは自分を納得させ、生きていくことを選び取ります。

『サンチョ・パンサの帰郷』の中に、「納得」という詩があります。

この詩人の、体験を知ってから読めば、ひとつひとつの言葉の背後に、どれほどの言葉にならなかった想いが込められているのかが、感じられるはずです。

わかったな それが
納得したということだ
旗のようなもので
あるかもしれぬ
おしつめた息のようなもので
あるかもしれぬ
旗のようなものであるとき
商人は風と
峻別されるだろう
おしつめた
息のようなものであるときは
ききとりうるかぎりの
小さな声を待てばいいのだ
(「納得」部分)

この詩は、誰かに宛てたというよりは、自分自身へ向けて書かれたものでしょう。

かれの詩が、いつも容易に読解されるのを拒否するような印象を与えるのは、ひとつひとつの言葉が、誰かに宛てたのではなく、自分自身に宛てて発せられているという理由によるのではないでしょうか。

もしも、そのような読解が許されるのならば、この詩人の作品の中にある、ぶっきらぼうともいえる、説明不足の、それでいて誰も受け止めることを拒否できないような言葉にも得心がいくように思えるのです。

この詩人、石原吉郎は1964年、『サンチョ・パンサの帰郷』によって第14回H氏賞を受賞します。

そしてその十三年後に、埼玉県にある公営住宅の浴槽で倒れます。

石原吉郎という詩人は、スターリン・ラーゲリでの抑留体験が無ければ生まれなかったでしょう。そういう意味では、幸福な詩人ではなかったように思えます。

石原吉郎には、どうしても伝えておきたいことがあった。いや、自分に対してどうしても納得できるような言葉を残しておく必要があった。

しかし、日本の詩の歴史の中の、どこにもそのような言葉を発見することはできなかったのかも知れません。

自分の一番深い部分に届くような言葉とはどのようなものなのか。

それを掘り出すことができなければ、これほどの断絶を越えて、相手に届いていく言葉を紡ぎだすことはできないという思いを噛みながら、詩を書いていた。

そういうことではないかと、思います。

©2014 daiwashobo. all rights reserved.