大和書房 WEB限定連載

言葉が鍛えられる場所 平川克美

第5回 愚かであることを愛おしく思うということ
― 向田邦子に寄せて


いっとき、隅田川沿いにある情報関係の会社に籍を置いていたことがありました。

大手建設会社の情報部門を独立させた会社で、オフィスは、隅田川沿いの、周囲の景観にはちょっと不釣り合いな高層ビルの中にありました。いくつもの机やコンピューターが整然と並んでいる、典型的なオフィスに、担当部門の役員として週数回ほど通っていたのです。

自分で作った会社以外で、会社勤めをしたことのないわたしには、決まった時間に出社し、会議を行い、仕事仲間と苦楽をともにするのは新鮮な体験でした。

サラリーマンがどのようなことを考えて、毎日仕事をしているのか、どんな苦労や喜びがあるのか、テレビドラマや映画でしか知らなかったサラリーマンの生態を、実際に自分もサラリーマンとしてかれらと触れ合うことで、少しは理解することができたように思えます。

目標に向かって仕事に励むグループの一員として、ともに悔しがり、ともに喜ぶ。

ときには、上役に対する不満を肴に酒を酌み交わすこともありました。

部門別のゴルフコンペに参加したり、カラオケボックスで大声で歌うという経験も、それまではしたことがなかったのです。

わたしは、いくつかの新規事業を立ち上げるプロジェクトを統括する役目を負っており、事業を何とか軌道に乗せようと、地べたを這い回るようなこともしたのですが、結局のところ在任中には芳しい業績を上げることはできませんでした。

どんなに努力をしても、なかなか報われないということがあるというのは、サラリーマンなら誰も知っていることなのでしょうが、無駄な努力を重ねることにもなにがしかの意味はあるということ知るのは、ずっと後になってからなのでしょう。

人間の行為のなかで、何が無駄で、何が意味のあるものなのか、それを決定するためには、時間というものが大きな決め手になるように思えます。

会社の中の時間は、人生の時間に比べれば、あまりに短いものでしかありません。

この言い方は正確ではありませんね。

会社の中に流れている時間は、いつも効率や結果に支配されて驚くほど速く過ぎ去るということです。

会社勤めがおわり、爾後の人生も終盤にさしかかってくれば、これまで価値があると思っていたことが取るに足りないことに変じたり、これまで無駄だとおもっていたことが思いのほか大切なことであったと気付くようなことがあるものです。


オフィスは禁煙でした。

最近は喫煙可のオフィスなどほとんど見ませんよね。この会社には、かなり広い喫煙室が設けられており、その部屋で顔見知りになった社員とよくお喋りをしたものです。

わたしがその会社を辞した翌年には、喫煙者の最後の砦である喫煙室もなくなりました。

あの場所で仲間になった社員たちはどうしているのかと、少し気の毒になります。

十三階のオフィスの喫煙室の窓から目に飛び込んできた東京の眺めは、いまでもたびたび思い出します。

あの頃、母親が病に伏して、わたしは、これから実家に戻って介護生活に入るべきか、それとも施設を探すべきか迷っていました。

オフィスのある場所は、当時両親が住んでいた場所から、かれらが生まれ育った埼玉県の村を結んでいる高速道路の中腹に位置していました。

母親が亡くなった後、同じ高速道路を車を走らせて、オフィスを過ぎて、田舎の墓地まで通うことになるとは、このときは思ってもいなかったのです。

十三階という高さの部屋からは、窓を通して曇天の東京が一望に見渡せます。

晴れた日には富士山まで見渡せるのですが、だいたいは薄幕が下りたようにぼやけた景色が広がっていました。

わたしのよく知っている大田区や品川区といった住宅と町工場が密集している南東京の風景と、このあたりの風景は随分違っていました。

ビルの間をうねるように流れる大川と、その周囲に拡がる清々しい緑の川辺の風景があるからかもしれません。

空が広いのです。

川辺のグラウンドで、野球に興じている人々の歓声が聞こえるような気がします。

実際には、ビルの窓から見下ろしているわけなので、外の音は何も聞こえてはこないのですが、何年か経て記憶を再編集してみれば、そこには人々の微かな歓声が響いているのです。記憶とは不思議なものです。

眼下には、白髭橋が架かり、ときおり橋の下を澪を引いて運搬船が潜り抜けて行くのが見えました。

橋の向こうに大きなガスタンクが三機ならんでいて、建築中の高層ビルの屋上には、クレーンが巨大生物の触覚のように、虚空に突き出していました。

明治通りを西に進めば、泪橋。山谷です。さらに南西には、吉原大門。

歴史に名を残しているこれらの地名をなぞるだけで、感じるものがありました。

スカイツリーは、まだ半分もできておらず、爆撃を受けた鉄塔のように、途中で鉄骨を露出させていました。

「これからどうしようか・・・」

母親の介護のことを想いながら、わたしは広い空を見上げたものです。


ある朝、テレビを見ていたら、柳家花緑が、向田邦子について落語風に語っている場面に出くわしました。十三階の窓から見たのと同じ曇天の東京の空の下に、彼女は苦悶の日々を送っていました。向田邦子が、「銀座百選」にエッセイを書き始めたのは、恋人を突然の死が連れ去り、自らも乳がんと闘病という試練を経た後でした。このとき、彼女は四十六歳。乳がんのときの輸血がもとで、肝炎を患い右手が不自由になっていたのです。だから、「銀座百選」は、左手で書いてエッセイを送っていました。このときのエッセイが評判になり、脚本家向田邦子は、作家向田邦子になったのです。

向田の作品には、食卓の詳細な描写があります。何を食べているか、何を着ているか、どんな部屋に住んでいるか。いつも、生活の微細なところを丹念に見つめるところから小説の世界を作り出していきました。その向田は、「年をとるほど、計画性がなく、おろかな人間が愛おしく思える」と語りました。

計画性がなく、おろかであることを愛せなければひとは作家にはなれない。

向田邦子の述懐は、そういいたいようにも聞こえます。

人生のマイナス部分に意味を与えることのできる、稀有な作家のひとりであったのは、彼女自身の人生が、マイナスのカードを集めるトランプゲームのように、不幸と不運を継ぎ合わせたようなものだったからかもしれません。

作家生活絶頂ともいえるときに、取材旅行中のボーイングが墜落して、彼女は51年の生涯を閉じました。唐突で、あっけない幕切れでした。

脚本家、作家、エッセイスト、詩人。ありあまる才能に恵まれたのですが、いや、それゆえに、彼女はいばらの人生を歩むことになったのかもしれません。確かに、短すぎる生涯ではありましたが、おろかさとはほど遠い人生でした。


そのテレビ放送があって数日後、わたしの母は、ほどなくして子宮頸癌で亡くなりました。「どうしようか」と十三階の窓で思い悩んでぐずぐずしているうちに、母親のほうは先に逝ってしまったのです。

母親の生涯を想う時、向田が描きだしたとおりの、計画性のない、おろかな、人生という言葉が浮かびます。

そして、わたしは、向田が言った「年をとるほど、計画性が無く、おろかな人間が愛おしく思える」という言葉に深い共感を覚えるのです。

作家にとって、「計画性があって、かしこい人間」は愛おしさの対象にはなりません。

わたしたちの世代の人間は、だれも計画を立てなさい、目標をもちなさい、かしこい行動をとりなさいと教えられながら大人になりました。

それでも、人間はどこかで計画性のないおろかさのなかで生きている。

母親の世代はどうだったのでしょうか。

たぶん、計画性とか、目標とかいった言葉よりは、もっと控えめで、具体的な生活態度を戒める言葉に囲まれて育ったように思います。

かしこくあることよりは、ひとさまから可愛がられる存在であることが求められていたのではないでしょうか。

わたしの母親の場合には、誰よりも早起きをして、庭の掃除をし、飯を炊き、男たちを送り出す役割に徹して、それ以外の楽しみは、夢の時間としてとっておくといった態度でした。彼女の遺品を整理していたら、晩年はじめた習字の作品や、刺繍作品や、日本舞踊の道具が出てきました。

計画的に生きるなんぞは、贅沢だと思っていたのかもしれません。いや、それが何を意味するのかも知らなかったというべきでしょう。


向田邦子の言葉を読んだとき、わたしはセザンヌが語ったこんな言葉を思い出しました。

私はときどき散歩に出たり、市場へじゃがいもを売りにいく小作人の二輪馬車の後からついて行ったことがある。彼は、サント・ヴィクトワールを一度も見たことがなかった。彼らは、あっちこっち、道に沿って何が植わっているか、また、明日はどんな天気か、またサント・ヴィクトワールに冠がかかっているかどうか、などは知っている。犬猫のように、彼らは自分たちの必要にだけ応じてかぎつける。i
ある種の黄色を前にして、あの人たちは自発的に、そろそろ始めなければならない刈り入れの仕草を感じとるのだ。ii

画家であるセザンヌが、同郷の詩人であるジョワシャン・ガスケに語った言葉です。

なぜ、こんな文章を思い出したのかといえば、わたしが三十歳になる少し前に書いた、セザンヌ論のなかで、この文章を引用していたからです。

もう、忘れていた言葉だったのですが、二つのまったく無関係な場所で発せられた言葉が、母親の死を触媒にして、共鳴し合ったのです。

「彼らは自分たちの必要にだけ応じてかぎつける」とセザンヌは語りました。

この小作人たちの生活態度を見て、セザンヌは絵画もこのようなものでなければならぬと感じます。

あるいは、小作人たちにとっての「ある種の黄色」が、自分の描くキャンバスにも描かれていなければならないと考えたのです。

それはまた、テレビドラマの食卓に並べられた料理も、緻密な計画に基づいたレシピからつくられたものではなく、おろかで計画性はないが、愛すべきひとびとがこしらえたものと同じでなければならないと信じたことに通じるものです。


向田邦子も、セザンヌも、剰余のない生活というもの、つまりは庶民というものを発見したのかもしれません。

わたしは、この自分がかかわったエピソードから、何か教訓的なものを引き出したいわけではありません。

向田が「年をとるほど愛おしく思える」対象に対して、わたしもまた同じように感じるようになったということだけを伝えたかったのです。

セザンヌが語った小作人たちも、現実には意地悪く、計算高く、ときには自堕落で因業なひとびとであったかもしれません。

それは、向田邦子が観察した「計画性のないおろかなひとびと」もまた、現実には存在していない理想化された庶民の姿なのかもしれません。

ただ、かれらの発した言葉には、どこか救済の響きがあるのです。

「それでいいよ」

向田はそう言っているように思います。

起承もなければ転結もない、偶然に始まって唐突におわる些事の繰り返しのような人生を愛することができるようになるためには、一生分の人生の体験の蓄積が必要なのかもしれません。


i 『セザンヌ』ジョワシャン・ガスケ著 与謝野文子翻訳、高田博厚監修 求龍堂発行 昭和55年11月21日

ii 同上

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