大和書房 WEB限定連載

言葉が鍛えられる場所 平川克美

第11回 「言葉」が「祈り」になるとき


痛みの連祷

 しかしまさしく視線の終わったところから視線は始まるのだ そして視線の終わったところからはなにもはじまりはしない 始まるのは le vierge, le vivace et le bel aujourd’húi… 一種の痛みだけだ 受け継がれるところのない不透明ないたみの連祷だけである
(安東次男 詩集〈CALENDRIER〉定本、所収「氷柱」より)

言葉の終わったところから、どんな言葉が始まるのか。

言葉が無力にならざるを得ない場所で、言葉は何を語ることができるのか。

そんなことは、普通は考えない。しかし、誰にでも、「しゃべったってしょうがない」「言葉にできない」「言葉はどんな解決も与えてくれない」と思ったことはあるに違いない。

一本のテレビドラマを観ていて、言葉が終ったところから始まるのは「不透明ないたみの連祷(れんとう)」のようなものでしかありえないという安東次男の詩の一行がしみじみとこころに沁みたことがあった。


そのテレビドラマは1984年、NHKで放送された「ドラマ人間模様 羽田浦地図」(脚本:池端俊策/演出:門脇正美、木田幸紀/主演:緒形拳)のことである。脚本を書いた池端俊策はこの作品を含めたいくつかの作品で向田邦子賞を受賞している。


このテレビドラマには原作がある。大田区の旋盤工として印象的な小説や、ルポを書き続けている小関智弘の、『羽田浦地図』と『錆色の町』がそれで、ドラマの方は同名の小説よりも、『錆色の町』のストーリーが中心になっている。『羽田浦地図』からは失われた町を、記憶の中で再現するために地図を描くというエピソードが盛り込まれて、小説とは違うドラマとして再構成されている。


舞台は昭和42年の秋、羽田穴森町(現在の羽田6丁目あたり)。

郷土史の研究のために、戦前の穴森町の地図を描くというプロジェクトが持ち上がる。羽田空港の建設で、穴森町は大きく変貌した。かつてここに住んでいたという女を訪ねて町内会の職員がやってくる。女は戦時中の一時期、三業地で春をひさいでいた。現在の女の面倒を見ているのは、渡り職人である旋盤工の茂木(緒形拳)である。茂木は戦友中沢(田村高廣)が経営している工場で働くことになる。この工場主と、茂木と、女をめぐって戦時中の悲しいエピソードが語られる。茂木の妻は、もともとは工場主中沢の情婦だったのだ。中沢は女を捨て、女は毒草であるノウゼンカズラを食べて死のうとしたことがある。それがもとで、ずっと体調を壊している。

かつての戦友であり、今は自分を雇い入れた工場主が、捨てた女を、茂木は妻にしたのである。

現在の工場主には、しっかりものの娘(佐藤オリエ)がついており、一家を支えている。

時あたかも60年安保闘争で、穴森町の海老取川にかかる橋の上では、機動隊と学生の激しい攻防が続いていた。

工場主の中沢は、まもなく癌で死んでしまう。

茂木に思いを寄せ、たよりにしている娘は、工場を継いでくれるよう茂木に懇願する。

それは、かつての自分の情婦を救い出してくれた茂木に対する中沢の願いでもあった。

工員たちは、はじめは、この流れ職人を受け入れなかったのだが、その仕事ぶりと、卓越した技術を見ているうちに少しずつ心を開いていく。


茂木の家は、現在の住処よりはずっと海よりにあり、祖父の代までは羽田浦の漁師だった。茂木も旋盤工にはなりたくてなったわけではない。しかし、羽田の海が空港の拡張工事で埋立てられ、漁師では食えなくなった茂木は旋盤工になって生計を繋いだ。

今は住宅が立ち並ぶこの地も、地面を掘ればたくさんの貝殻が出てくる。もともとは漁師町だったところなのだ

茂木といつかは一緒になりたいと願う工場主の娘。茂木はやがて、その娘と情を通じる。ある日、娘は、茂木を訪ね、父親と、茂木と、女のあいだでかつて何があったのかを知ることになる。女も、工場主の娘と茂木の関係を察し、自から身を引こうとする。そして、かつてそうしたように、毒草であるノウゼンカズラで自殺を図ろうとする。

すんでのところで妻を発見した茂木は、自分に思いを寄せる工場主の娘のいる工場を離れようと決心する。工場の若い職人に自分の技術は伝えてある。茂木は工場主の娘に退職願いを出す。


救いようのない悲しい物語である。しかし、戦後の場末の町にはどこにでもあったありふれた物語でもあった。

印象的な場面がある。

工場の資金繰りに窮し、工場主の娘も茂木も、窮地に追い込まれる。そのとき、茂木が何かを呟きながら海老取川の土手を歩く。娘と情を通じ人間関係もにっちもさっちもいかなくなった状態で、やはり何かをつぶやきながら町を歩く。

 いわし、しらうお、さわら、あじ、さめ、しまあじ、たなご、きす、うごい、めだい、、、
いなぼら、いか、さより、かさご、このしろ、こはだ、あなご、こち、せいご、いしだい、ざこ、、、

職人の世界は、手業の世界であり、工場の中は言葉のない機械音の世界である。腕の良い渡り職人である茂木も、さまざまな困難を言葉で切り抜けるような器用な人間である。職場での人間関係の軋轢を解消してゆくのは、茂木の旋盤に向き合う姿勢であり、確かな技術の集積であった。

茂木のどんな卓越した技術をもってしても、解決できない問題はたくさんある。いや、ほとんどの問題は解決不能だ。

茂木が窮地に陥り、切羽詰まり、なすすべがなくなったときに、歩きながら口をついて出てきたのが、先の、自分が生まれ育った土地で死んでいった魚の名前を、連祷のように唱えることだったのだ。

生きることは働くこと

さて、以下は余談である。

このドラマの原作者である小関智弘さんには、一度だけお会いしたことがある。自分の著作で、氏の文章を引用させていただく許可を得たかったからである。同じ大田区で旋盤工をしながら作家活動を続けてこられた先輩にお会いしたいということもあった。

事前にお電話で、何処でお会いしましょうかとお聞きすると、大森駅のビルの中の喫茶店を指定された。

ちょっとした、お茶菓子を手に、わたしはその喫茶店に向かった。

小関さんに関しては、いくつかの職人に関するルポルタージュ、小説を読んでいたが、そのどれにも顔写真はなかったので、大きな喫茶店ですぐに分かるかどうか少し不安であった。

しかし、喫茶店に入った瞬間にわたしは、小関さんを認めることができた。

他にほとんどお客がいなかったこともあったが、わたしのなかにあった旋盤工を続けながら小説を書いているという人物像そのままの、矍鑠たる「知的な労働者」の顔がそこにあった。浅黒い顔に、辛苦に耐えてきたと思わせるような皺が刻まれていた。

そこで、このドラマのお話も少し伺った。

撮影の現場で緒形拳と交わした会話のなかで、緒形拳が「いいですね、この生き方」「働くことと生きることが同義であるような」ということを言ったという。

なるほど、「働くことと生きることが同義であるような生き方」かと、わたしはうなずいたと思う。あの時代、つまり昭和三十年代、四十年代は、労働の時代だった。後に日本全体を覆う消費の時代は、まだまだ予感すらされていなかった。

あの頃は、誰にとっても生きることとは、働くことだったのだ。


数日後、このドラマが収められたDVD二枚が、小関さんから送られてきた。

以後、何度かお手紙でのやり取りをさせていただいているが、あのときにお聞きした言葉、それ以後のわたしの人生に何ものかを付け加えてくれたのは確かだろう。

わたしは、中学校時代の友人二人を、自分の書斎に招き入れ、このドラマを一緒に観た。そこにある「錆色の町」の光景は、わたしたちの原点であった。三人とも、昭和の町工場の倅としての少年期を送ってきたからである。

ドラマを観ながら、三人とも同じところで息を詰まらせた。

 いなぼら、いか、さより、かさご、このしろ、こはだ、あなご、こち、せいご、いしだい、ざこ、、、

それは、緒形拳が、解決できない問題をかかえこんで、魚の名前を呟きながら、海老取川を歩むシーンである。

それは、読経のようでもあり、祈りのようでもあった。いや、そうすることでしか、生きてはいけないときに、口をついて出てくるなにかであった。わたしたちは、小関さんから宿題をいただいたような気持になっていたのだ。


それからしばらくして、わたしたちは大井町の駅前で待ち合わせ、羽田浦までの、錆色の町を巡るちいさな旅をすることを決めたのである。

©2014 daiwashobo. all rights reserved.