大和書房 WEB限定連載

見えないものとの対話 平川克美

第1回 町に鉄のにおいがした時代


そんな犬、どこかへ捨ててこい

過去の時間には、はっきりとした濃淡がある。
 ほとんどの場合は、薄ぼんやりとしたセピア色の8ミリフィルムのようだが、ところどころ、非常に鮮明な部分があるのだ。自分では特に重要だと思っているような出来事ではないはずなのに、なぜかそこの記憶だけはくっきりとした輪郭がある。何か理由がありそうなのだがそれが何であるのか、わたしにはまだ明確に答えることはできない。

最近、しきりに六十年前に父親との間で起きた諍いについて思い出す。半世紀以上前の出来事なので、どうしてそんなことになったのか、その後どうなったのかについては、ほとんど何も覚えていない。長い暗闇が続くトンネルのような過去の時間の中で、突然ピントが合った写真のような光景があらわれる。しかし、それが本物の記憶なのか、それとも以後の長い時間の中で捏造されていったものなのかは、実のところ自分でもよく分からないのである。

それが冬の夜だったのは確かだろう。というのは、だるまストーブの上の薬缶がシューシューと音を立てて湯気を噴き上げていたからである。
 わたしは、父親とふたりで工場の作業台を挟んで対峙していた。足元には、すでに成犬といってもよいほどの茶色い痩せた雑種犬が、大声を上げて怒鳴り合う親子を見上げていた。数分後に、この犬に悲劇が襲うのだが、その詳細は後にしよう。

昭和三十二年。この年、ソ連の宇宙ロケットスプートニク2号が打ち上げに成功した。ロケットにはライカ犬が乗せられていた。わたしのオールタイムベストムービーに、ラッセ・ハルストレム監督の『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』がある。この映画では主人公の少年イングマルの独白が通奏低音のように幾度か繰り返される。「人工衛星に乗せられて死んでいったライカ犬より、僕の人生のほうがまだ幸せだ」。
 このナレーションを聞いたとき、わたしは自分と、自分が連れてきた雑種犬の身に起きた小さな事件を思い出していた。あいつは、幸せな生涯を送ったのだろうか。

戦後まもなく、見合いをして結婚が決まった父親は、実家である埼玉県から東京の場末に家を借りた。
 父親の実家は比較的裕福な農家だったが、先妻の長男はすでに所帯を持って実家に同居していたために、後妻の長男であった父親は結婚を機に家を出なくてはならなかった。
 蒲田と五反田を結ぶ池上線という東急の私鉄沿線には、羽田浦あたりから多摩川沿いを北上するように、町工場が並んでいた。
 父親は、池上線の千鳥町駅と久が原駅のちょうど中間あたりの一角に、二階家を借り受け、一階に機械を並べた。わが家のある通りには、スプリング工場、精密機械工場、金属加工工場、プレス工場が並んでいた。大田区には、三菱重工や、キヤノン、新潟鉄工といった大企業が散在しており、その周辺に下請けの町工場が蝟集したのである。
 わたしの家もそんな町工場のひとつであった。父親にとって、身寄りもない東京の場末で生きていくには、近隣の元請け工場からこぼれてくるプレス仕事を請け負って糊口を凌ぐほかに方法がなかったともいえる。
 戦時中、軍需工場で習い覚えた技術だけが頼りだったのだろう。
 結婚して埼玉県から出て、省線(いまのJR京浜東北線)の蒲田駅に降り立ったとき、父親はどんな気持ちだったのだろうか。新天地で一旗揚げて、故郷に錦を飾る心境か、あるいは何をして生きていこうかと呆然とした気持ちだったのか。
 蒲田周辺は東京大空襲によって焼け野原になっており、西口には闇市が広がっていた。その闇市に沿う形で蒲田を始発とする二本の私鉄が北へ延びていた。池上線と目蒲線である。その沿線を舞台に、小津安二郎は一本の映画をつくった。小津のサイレント時代最後の名作『生まれてはみたけれど』である。
 戦前昭和の蒲田は、東京でも有数の中心地であり、省線を挟んだ西側には大きな工場が並び、東側には松竹の撮影所(1920年-1936年)があった。戦後、松竹撮影所は大船(1936年-2000年)へ移ったが、その跡地は映画街になった。わたしが最初に見た洋画は、この場所で、父親といっしょに観た『シェーン』であった。わたしにとって、この時分の蒲田の繁華街の風景は、古い銀塩写真のように輪郭がぼけて、消えかけている。


「そんな犬、どこかへ捨ててこい」と父親は言った。わたしは、どうしても飼いたいと何度も懇願したが、父親は頑として許そうとはしなかった。そのとき、わたしが何を言ったのかは覚えていないのだが、ひどい言葉で父親をなじったのだろう。作業台を片付けていた父親が手を挙げて、何かを振り払うようにしたときに、だるまストーブの上で湯気を立てていた薬缶を払いのける格好になってしまった。
 薬缶は、吹き上げる熱湯とともに、床に落下した。
 ちょうどそのあたりに父子の言い争いを見上げていた犬の背中があった。犬は悲鳴を上げて飛びのき、そのまま工場の出口から庭へと駆け抜けて行ってしまった。
 わたしは、犬を追いかけるように家を出たが、犬の姿はもうそこにはなかった。
 わたしは、まだ名前もない犬の行方を夜が更けるまで探した。
 そのあとの記憶ははっきりしない。結局この犬(のちにジョンと名付けらることになる)は、わが家の飼い犬になった。熱湯のかかったジョンの背中は、当初はケロイド状になって腫れあがっていた。
 しばらくするとケロイドは収まったが、禿げ頭のように無毛の地肌はむき出しになったままであった。さらに一年が過ぎたころ、他の場所とは色の違う産毛のようなものが、癒えた火傷の跡地から生えてきた。
 あれほど、動物好きで、子どもにも優しかった父親が、何故あのとき、犬を飼うことを許さなかったのかについては未だに、よくは分からないところがある。
 住宅地に騒音を出す工場をつくり、ようやく周囲の住人からも認知されるようになったときであった。あのときは、近隣に迷惑をかけるかもしれない犬は飼えないと思っていたのかもしれない。実際、ジョンはよく近隣の家の靴やサンダルをくわえてわが家にもどってきた。
 思い返してみれば、あの当時、父親がどんな気持ちで工場を経営し、日々を送っていたのかについて、これまでほとんど考えたこともなかった。


匂わないはずの匂い

犬(ジョン)がその後、どのようになったのかについては、記憶がない。
 わが家では、ジョンを含めて三回犬を飼った。飼ったとはいっても、当時はみな放し飼いで、家族の残飯を味噌汁と一緒に混ぜたような食べ物を与えるだけのことであった。他の二頭については、どのように死んでいったのかということまではっきりと覚えているのに、ジョンに関してだけ死の記憶がないのである。
 ジョンが居なくなってからわが家に飼われることになった犬にはエスという名前が付けられた。スピッツの雑種で、黒と白の毛が不思議な模様をつくっている可愛い小型犬だったが、不幸なことに、電車にひかれて死んでしまった。三頭目は血統書付きのシェパードで、ドイツ犬だがピーターと名付けた。父親が知人から譲り受けた子犬だったが見る見るうちに大人でも引きずられそうな大きな犬に育ち、もはや工場では飼いきれないということで、母親の親戚のある田舎で預かってもらった。しばらくすると、ピーターが農薬を飲んで死んだという知らせが届いた。
 ジョンは、どこに消えたのだろうか。保健所に届け出もせず、放し飼い状態だったので、どこかの時点で保健所に捕まって処分されてしまったのかもしれない。あるいは、他の二頭と違って、最初から悲劇的な生涯を送らなければならなかったジョンの最後に関しては、わたし自身がどこかで記憶を封印してしまったのかもしれない。そうだとすれば、それはわたしにとっての心的外傷(トラウマ)として、その後の人生になんらかの影響を与えているのかもしれない。それについては、やや思い当たることもあるのだが、それはまた稿を改めて書くことにしよう。

ジョンがいなくなりエスが死んで、ピーターが家に来た頃は、実家の工場には旋盤や、ボール盤、パワープレス機などが何台も並ぶようになり、従業員も二十名ほどになっていた。
 わたしは、地元の中学校から、都立高校を受験するために、毎晩遅くまで勉強していた。当初は、工場の二階で家族四人が暮らしていたのだが、その頃になると、自宅と工場が別棟になっていた。工場が手狭になったので、父親は家族の居住用に、空き家になっていた隣の平屋を借りたのである。
 わたしたち家族が住んでいた大田区に、旋盤工として働きながらすぐれた小説を発表していた作家がいる。小関智弘さんである。氏の作品を読むとわたしは当時のわが家の光景がありありと浮かんでくる。工場の生活というものが、どんなものなのか小関さんは知り尽くしている。そして、東京の南の外れの場末の工場に生まれた人間ならば、誰もが同じ風景を共有しているのである。

 「昨夜の雨で、うずたかく積まれた鉄の切屑は、一夜のうちに赤錆びていて、なま暖かい風が窓から工場の中に躍り込むと、茂木は久しく忘れていたにおいを嗅いだように、深い息をした。春は鉄までがにおった。」(小関智弘『錆色の町』)

印象的なエンディングである。私は、この一節を読んだとき、それまで忘れていた鉄の匂いが甦ってきたのを覚えている。

二〇一二年に日本経済新聞社から刊行された最新作『職人学』に、小関さんは以下のように書いている。

 この小説はその年の直木賞候補に選ばれて、たまたま入選作がなかったので、佳作として『オール讀物』に転載されたために、ちょっと話題になった。そのためにいくつかの文芸誌が書評してくれたのだが、何人かの評者が「匂うはずのない鉄を、匂ったと書くのは、作者の思い入れが過ぎる」と批判した。
(小関智弘『職人学』日経ビジネス文庫、二〇一二)

ある評者は、実際に工場に行って鉄を削ったが匂わなかったとまで、言ったようである。なるほど、わからない人にはわからないのだ。
 私には、鉄の匂いと聞けば、ああ、あの饐えたような渋みのある味のするあの匂いだなとすぐにわかる。それは、工場で育った私が一番よく知っていることだし、鉄を扱う工場にある程度の期間勤務したことのあるものなら、誰でも知っていることである。
 工場で働いたものにとって、鉄は匂いも味も覚えのあるものなのだ。
 確かに化学的には、鉄は無臭である。しかし、実際の工場からは鉄の匂いが立ち上っている。この矛盾をどのように解釈すべきか。小関さんは丁寧に、その匂いの源を説明してくれているのだが、私には「鉄が匂った」という言葉だけで十分なのであった。

この作品は、同じころに書かれたもうひとつの秀作『羽田浦地図』と合体されるかたちで、NHKのドラマになった。脚本は池端俊策。タイトルは『錆色の町』ではなく、『ドラマ人間模様 羽田浦地図』となった。池端は、今村昌平監督作品で緒形拳主演の『復讐するは我にあり』の脚本も担当しており、その縁もあってか、『羽田浦地図』の主人公である旋盤の渡り職人役になっている。小関さんはロケ地を訪ね緒形拳と意気投合する。そして、何度か手紙のやりとりが行われたようである。
 手元にある『羽田浦地図』のあとがきを読むと、緒形拳が、小関さんに「なぜ旋盤工をやめないのか」と問うたと書いてある。小関さんが答えると「その生きかた、いいですねえ」とうなずいて翌年の年賀状に「牛はのろのろと歩く」と書いて送ったそうである。
 いい話である。
 小関さんは緒形拳の質問に対して、簡潔にただ「答えた」と書いているが、どのように「答えた」のか、その内容は書いていない。いったい小関さんはこのとき何と答えたのだろう。


生きることと働くこと

数年前になるが、自分が以前書いた本が新書になって復活するということになり、わたしは小関さんにその帯文を依頼した。その折に、上の文章のプリントアウトも同封した。しばらくすると、ご本人から封書が届いた。そして、そのお手紙は次のように書き出されていた。
 「ご依頼の件のほかに、頂いたコラムの疑問にお答えしなければと、ずっと気になっておりました。」
 ここで小関さんがコラムと言っているのは、『羽田浦地図』のあとがきのことである。
 お手紙には緒形拳と小関さんとのやりとりが仔細に書かれていた。わたしは、心に染みる音楽を聴くようにしてその文章を何度も読み返した。緒形拳逝去の報が届いたとき、わたしはもう一度そのお手紙を梱から引っ張り出して読み返した。そこには、二人の男の、寡黙だが背筋の伸びた言葉が向き合う岩のように配置されていた。小関さんは文学賞に四度ノミネートされた後、編集者からプロの作家にならないかとの誘いを何度も受けていたが、結局それを断って旋盤工として働き続けたのであった。

 もしもあのとき誘いに乗っていたら、という仮説は無意味かも知れませんが、乗らずに「現場」を見据えたから、「現場」がその後のわたしの文章の源泉であり得たのだと思う

という小関さんの述懐があった。それが、わたしの疑問に対するお答えであった。これだけで、一編の小説になりそうな美しい言葉である。そして、その少し前に、緒形拳との交流についての印象的な文章が綴られていた。

 緒形拳さんとは、その前にドラマの原作の小説集(文芸春秋刊)にサインを求められて、わたしはそこに「働くことと生きることが同義語の人たち」と書きました。わたしが小説に書いたのはそういう人たちだということです。
 緒形さんはそのとき、「町のどこかで、ちょっと日向ぼっこしているおじいさんね。そんななんでもない人にだって、深い人生があり、ドラマがありますよね。わたしはいつか、そういう人生やドラマを演じきれる俳優になりたいと思っていて、それがこれからの課題です」というようなことを、わたしに話してくれたのでした。

ジョンがいなくなって数年ののち。父親の経営する工場は人が増え、父親は毎晩夜遅くまで工場で仕事をしていた。
 高度経済成長のおかげもあって、工場は軌道に乗ったようであった。
 わたしは、高校受験のために、毎晩遅くまで勉強した。おそらく、これほど勉強したのはこのとき以来一度もないだろう。ほとんど興味のない勉強を、なぜあれほど一所懸命やれたのか、いま考えても不思議である。
 わたしは、興味のないことにはめっぽう淡泊な質であり、興味のあることであっても飽きっぽいことこの上ない性格である。
 ただ、父親が毎晩毎晩夜遅くまで働いているのを見ていて、その気迫のようなものに影響されて受験勉強に取り組んでいたのかもしれない。

その日は夜中の0時を回っても、工場に明かりがついていた。
 わたしは、勉強の手を止めて、工場の様子をうかがうために部屋を出て、工場の窓口から中をうかがった。
 父親はちょうど仕事を終えて、作業台の上を片付けていた。
 30坪ほどの工場の天井の半分は明かりが消えていたが、父親は薄暗い工場に立って並んでいる機械を見ていた。遠くを眺めているような不思議な目をしていた。
 プレス機械一台から始めた工場が、気が付けば様々な機械が並ぶちょっとした規模の工場へと成長していたのだ。今思えば、父親が見ていたのは工場が成長するまでの長い時間だったように思う。
 わたしに気が付くと、父親は手招きをしてわたしを迎え入れた。
 そして、「どうだ、工場も一人前になっただろう」とわたしに語りかけたのであった。
 裸一貫で築き上げた工場を眺めて大きな達成感に浸っている様子が、わたしの肩に置かれた父親の手から伝わってくるようだった。
 いま思えば、あれが、「働くことと生きることが同義語である」父親のいちばんよい時代だった。

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