大和書房 WEB限定連載

見えないものとの対話 平川克美

第3回 オリンピックと死者の影


東京五輪の英雄・円谷幸吉の遺書

円谷幸吉が死んで、50年が経過した。
 2020年のオリンピック東京大会が決まったとき、狂喜した選手や、競技関係者、そしてこの大会の東京開催を心待ちにしていた人々のうち、どれだけの人が円谷幸吉とその死について関心を寄せているのだろうか。いや、すでにあれから半世紀が経過している。もはや、名前も知らない若者が多いかもしれない。
 それは、わたしにとっては、かなり大きな衝撃だった。
 1968年。この年はメキシコでオリンピックが開催されることになっていた。1964年に開催された東京オリンピックの4年後の開催地が高地メキシコと決まっていたのである。
 東京オリンピックのマラソン競技で銅メダルを獲得した円谷幸吉は、メキシコでのさらなる活躍が期待されていた。本人もそれを期待していただろう。
 その年が明けてまだ間もない1月9日の朝日新聞夕刊に、円谷幸吉が剃刀で頸動脈を切って自殺をしたという記事が載った。
 唐突なニュースだった。
 記事には、遺書が残されていたと書かれていた。
 便箋3枚に綴られたという遺書は、その後、様々な媒体で全文が掲載されることとなった。

 父上様母上様 三日とろろ美味しうございました。干し柿 もちも美味しうございました。
 敏雄兄姉上様 おすし美味しうございました。
 勝美兄姉上様 ブドウ酒 リンゴ美味しうございました。
 巌兄姉上様 しそめし 南ばんづけ美味しうございました。
 喜久造兄姉上様 ブドウ液 養命酒美味しうございました。又いつも洗濯ありがとうございました。
 幸造兄姉上様 往復車に便乗さして戴き有難とうございました。モンゴいか美味しうございました。
 正男兄姉上様お気を煩わして大変申し訳ありませんでした。
 幸雄君、秀雄君、幹雄君、敏子ちゃん、ひで子ちゃん、
 良介君、敬久君、みよ子ちゃん、ゆき江ちゃん、
 光江ちゃん、彰君、芳幸君、恵子ちゃん、
 幸栄君、裕ちゃん、キーちゃん、正嗣君、
 立派な人になってください。
 父上様母上様 幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません。
 何卒 お許し下さい。
 気が休まる事なく御苦労、御心配をお掛け致し申し訳ありません。
 幸吉は父母上様の側で暮しとうございました。

わたしが、この記事に衝撃を受けた理由は、単にひとりのマラソンランナーが自殺したということにとどまらなかった。
 わたしは、その4年前に円谷幸吉というランナーが走っていた同じ場所に居たのである。
 最初に遺書を読んだとき、何と不思議な遺書なのだろうかと不思議に思った記憶がある。
 そこには、自己主張もなければ、世間に対する恨みもない、ただ、透明な感謝の気持ちだけが、痛みの連祷のように続いているだけであった。
 遺書は様々な反響を呼んだ。
 川端康成は「千万言も尽くせぬ哀切」と表現し、三島由紀夫は「傷つきやすい、雄々しい、美しい自尊心による自殺」と書いた。
 わたしには、当初は、この遺書がそのような崇高な輝きを持つものであるという印象はなかった。ただ、不思議な文章だなと思っただけであった。
 そして、かれの走りと同様の、実直さと痛々しさがないまぜになったような苦し気な呼吸音が聞こえてくるように感じた。
 わたしは、この選手が競技場で走っていたときの、苦しそうな姿を目で追いかけている中学生の自分を思い出していた。そのときは、ただ「何やってるんだ」という小さな怒りのようなものと、「メダルに届いてよかった」という安堵がないまぜになったような気持を噛みしめるほかはなかったように思う。


大歓声が悲鳴に変わったゴール前

1964年10月、わたしは東京都大田区の公立中学校へ通っていた。東京オリンピックは、おおかたの中学生にとっては胸躍るイベントだった。
 わたしたちの中学の生徒は、自分が観たい競技を選び、最終的には抽選でどの競技を観戦できるのかが決められた。
 10月21日、わたしは、マラソンの行われる国立競技場の観客席に座っていた。私が座っていたのはスタジアムの中段で、ここから見ると競技場の選手までの距離は思っていたよりも離れており、その表情まではうかがい知ることができなかった。これなら、テレビで観ていた方がよく分かるなと悔やんだほどである。
 オリンピックでの金メダル数は総計で16個。そのうち体操が5個、レスリングが5個、柔道が3個、あとはバレーボールとボクシングと重量挙げが各1個。陸上ではこの最終日まで、メダルは1つもとることができていなかった。
 基礎的な身体能力だけで闘う陸上競技というものを考えるとき、筋骨隆々とした黒人短距離走者や、山野を駆け巡って鍛えた長い足を持つ外国勢に比べると、日本人の身体には何かが欠けていると思わざるを得なかった。それを一言で言えば、おそらく野生ということかもしれない。
 もし陸上競技でメダルに届く種目があるとすれば、それは単なる身体の優位性だけで走り通すには距離が長すぎるマラソンしかなかったのである。忍耐力ということなら、あるいは日本人がかれらに勝ることも可能かもしれないと多くの日本人も考えていただろう。だが、忍耐力に日本人が勝るなどという根拠は、本当はただの思い込みに過ぎなかったのかもしれない。
 マラソンが始まったのは午後1時。68人の選手たちは、グラウンドを周回して、競技場の門から出ていった。その中に、円谷幸吉、君原健二、寺沢徹がいた。日本選手の中で最も大きな期待を背負っていたのは君原だった。
 マラソンを競技場で観るというのは、奇妙なものである。そのレースのほとんどは、見ることができず、ときおり場内放送で経過がアナウンスされるのを聞くことができるだけである。当時の人気商品だったトランジスタラジオをスタジオに持参していたものもあったかもしれないが、わたしは2時間余りの時間を、トラックやフィールドで行われている退屈な風景を、遠方からただぼんやりと眺めていただけだった。
 大観衆というわけでもなかったような気がする。確かに、スタジアムは満員だったのだろうが、当時の観客は鳴り物で大騒ぎをしたり、歌を歌ったりというような熱狂はなく、有名な選手が競技をするときだけ、会場全体が沸くといった程度だった。
 ただ、一度だけ競技場全体が大きな熱狂に包まれた瞬間を除けば。
 前回大会のローマオリンピックで、裸足で42.195キロメートルを走って優勝したアベベは、このときも優勝候補の筆頭だった。ただ、マラソンという過酷な競技において、オリンピック2連覇は不可能だとされ、それまでに達成した選手はいなかった。
 しかし、アベベは東京大会でも圧倒的な強さで優勝した。2連覇は不可能というジンクスが軽々と破られた瞬間だった。後続の選手がスタジアムに入ってくるまではかなりの時間があった。アベベは何事もなかったように、屈伸運動とストレッチを行っていた。わたしは、アベベの走る姿を競技場でしか見ていなかったが、大会後、市川崑の映画で見て驚愕した。レースは中盤からアベベの独走だった。
 その姿は「走る哲学者」と形容されたように、なにものにも屈せず、なにものも寄せ付けないような風格のようなものを感じさせた。ただ一人、前方をしかと見つめて黙々と走り続ける姿は、たしかに哲学者の風貌であった。確か、前年に盲腸の手術をしたということだったが、そうした影響はどこにも感じることができなかった。もし、このときアベベの足や腰に何らかの不調があったとしても、誰もその気配を感じ取ることはできなかっただろう。
 かなりの時間が経過して、2番目にスタジアムに入ってきたのが円谷幸吉だった。大歓声が円谷を迎えた。懸命に腕を振る円谷は、顎が上がり、身体を揺らしながら苦しそうに走っていた。そしてそのすぐ後に、イギリスのベイジル・ヒートリー選手が姿を現し、円谷との距離を徐々に詰めていった。大歓声は悲鳴に変わった。
 バックスタンド付近で、円谷はヒートリーに抜かれ、そのまま3着でゴールした。
 タイム差はわずかに3秒だった。
 もともと、5000メートルと10000メートルの中距離選手だった円谷は、何故ラストスパートでその足を使えなかったのか。
 このとき、スタジアムではわたしより3歳年長の作家、沢木耕太郎が観戦していた。わたしは、氏の初期の傑作『敗れざる者たち』 でそのことを知った。
 沢木はわたしと同じ大田区出身で、高校時代は陸上部に所属していた。友人の内田樹の兄である内田徹さんは、高校生時代の沢木を見ている。同じ高校に通っていたのである。徹さんの2年年長の先輩は、当然まだ無名の一高校生だったがすでに異彩を放つ存在だったという。
『敗れざる者たち』では、ボクシング選手からカシアス内藤と輪島功一、野球から難波二郎と榎本喜八、競馬のイシノヒカルらとともに、円谷幸吉に一章を設けている。高校の陸上部にいた沢木にとっては、どうしても外せない選手だったのだろう。
 その本の中に興味深い記述があった。
「しかし、なぜ円谷はむざむざとヒートリーに抜かれてしまったのだろう。普通のレースであれば、急迫してきた相手は足音や息遣いで察知できる。確かにこのレースでは、観衆の声によって聴覚が奪われたとおなじことになってしまった。しかし、まだ視覚は残っている。なぜ競技場に入ったとき、一度だけでも振り返って見なかったのか」
 これに対して、円谷はのちに「自分は決してうしろを振り向かないから」と語っていたそうである。
 沢木はこの円谷の述懐に続けて、中学校の徒競走での円谷と父親とのエピソードを紹介している。
 先頭を走っていた円谷が、走りながら後から来る連中が気になって振り返ったことがあった。結局一着でゴールしたのだが、あとで父親にひどく怒られてしまう。
「男が一度こうと決めて走り出した以上、どんなことがあっても後を振り返るなんてことを、するじゃねえ」。
 今の時代からすれば、埃が積もったような古めかしい精神主義だが、当時はこんな父親がいたのかもしれない。それを沢木は、「土着的、農村的倫理を頑固なほど純粋に叩き込んだだけなのだ」と書いている。
 わたしは、こうした前近代的ともいえる精神主義がわからないでもない年代である。おそらくは、沢木耕太郎も同じだろう。しかし、こうした「倫理」を大人になっても忠実に守り通した円谷幸吉という男が、東京オリンピック以後の近代を易々と生き抜いていく姿は想像することができなかった。
 それほどに、東京オリンピック以前の日本と、以後の日本は大きく変わっていた。
 高速道路が整備され、街から傷痍軍人が姿を消し、高度経済成長は日本を世界でも有数の消費大国へと押し上げていたのである。

円谷の自殺の原因は、ひとことでは語れない。たとえば、周囲からの過剰な期待というプレッシャー、幾度とない故障で思うようにならない身体、結婚話の破断などである。それぞれは、幾分かは円谷の自殺の要因として挙げることはできるかもしれないが、すべては事後的に分ったことに過ぎない。翌年のメキシコオリンピックで銀メダルに輝いた君原健二は後に、自責の念を感じながらも、つぎのように述懐している。

 広島での大会中、競技場の控室で「メキシコ五輪では日の丸を揚げる。それが国民に対する約束だから」と口にした。それは、東京五輪の直後から円谷さんが繰り返してきたセリフだった。(君原健二 2012/8/18付日本経済新聞 朝刊)
 メキシコ五輪が刻々と迫る中、円谷さんの故障は長引き、まともに走ることができなかった。椎間板ヘルニアの手術に踏み切ったが、回復はしなかった。(同上)

もし、円谷が自死を選んでいなければ、それらの出来事も、ハンデを乗り越えてきたという美談になっていたはずである。
 わたしにはそうした個々の原因よりは、父親から叩き込まれ、内面化していった前近代的な「倫理」が、東京オリンピック以後という時代のなかでのたうち、苦しんでいる様子が浮かんできてしまう。円谷幸吉は、時代に追い越され、追い詰められていったのではなかろうかと。


イナゴたちの集団自殺

ひとつの詩がある。
 その詩はこんなふうにはじまる。

埼玉県秩父市に住んでいた、祖父の話である。

東京都でのオリンピック開催が決まった、二〇一三年。
当時祖父の肇は八才で、小学三年生だった。
九月八日、肇が目を覚ますと、東京オリンピックの開催が決定していた。
「トキョ」
という西洋訛りの言葉とともに、“TOKYO 2020”と記された白地のカードを白髪の老紳士が観客に示す映像を、その日何度も見た。
ニュースが流れるたび、老紳士は
「トキョ」
と言い、何度も“TOKYO 2020”という文字を示した。
(『狸の匣』マーサ・ナカムラ  所収「東京オリンピックの開催とイナゴの成仏」より抜粋)

不思議な書き出しである。
 何故ここに八才の祖父が出てくるのか。そして、2013年の東京オリンピック開催決定のテレビを観ているのか。
 祖父が小学三年生で見たものは、本当は何だったのか。
 その理由が詩を読み進めるうちに開示される。

その夜、まぶたの裏にテレビの青い点滅を感じつつ、肇がゆったりとまどろんでいると、また
「トキョ」
という老紳士の声が聞こえた。
(ああ、また東京オリンピックのニュースが流れている)
そう肇が考えたとき、庭の方で、わあーという歓声が上がった。
そして、
「コツコツ」
という、子どもの指の関節を硝子に軽くぶつけるような音が、障子越しにいくつも響いた。
(同上)

それは、イナゴの大群が硝子戸に飛びつこうと何度も身体を打ち付ける音だった。イナゴたちは奇妙なことを語り始める。「日本は、すっかり豊かな国になった。もう、大丈夫だろう。俺たちの若い死は決して無駄ではなかったと、みんな分かったと思う。俺たちの若い死は無駄ではなかった」
 あるいは
「アメリカを日本のように貧しい国にしようと、今まで頑張ってきたが、もうやめていいんじゃないか。今年で、アメリカ本土上陸作戦はおしまいにしよう。成仏して、生まれ変わろう」
 この展開には意表をつかれた。わたしは、驚くとともに、この若い詩人が照準しているものが何であるのかが分かった気がした。
 そして、詩のクライマックスはほとんど土俗的な物語のような響きでこちらの胸に迫ってくる。

庭でイナゴが火をおこしていた。
「南無阿弥陀仏」の大合唱がおきた。
火は野いちごのように小さく、ちらちらと青芝の中で光った。
「さようなら、さようなら、貴様ら、もう顔を見るのもいやだ」
そう叫んで、一匹のイナゴが火の中に消えていった。
イナゴたちはすこしはっとした表情をしてから、思い直して、満ち足りたような声で大笑いした。
「俺たちも続くぞ。さらば」
(同上)

いうまでもなく、イナゴとは太平洋戦争で死んでいったものたちの喩である。逆に言えば、オリンピック開催に狂気する日本の姿こそが太平洋戦争の喩になる。
 この詩には時系列というものがもともと存在していない。それは、死者たちにとって時系列が無意味であることと同じである。

2020年のオリンピック東京招致の映像はわたしもテレビで見た。その招致活動で、都知事がマラソンの真似事をしたり、総理大臣が福島原発事故は完全にコントロールされていると言って招致に躍起になっていた風景と、候補選手やタレントが小躍りするさまが重なって、何とも憂鬱な気持ちになってしまった。
 わたしは、内田樹、小田嶋隆との共著として『街場の五輪論』 という本を出したことがある。東京でオリンピックを開催することに批判的な鼎談をまとめたものである。わたしにとっても、友人の内田にとっても、オリンピックについてあまりよい思い出がない。それ以前と、それ以後の東京の風景の変わりように対しても、そのあまりの開発破壊の激しさに怒りすら覚える。ただ、それは個人的な見解であり、ことさらそれを他者に押し付けたいという気持ちはない。もし、同じように感じている読者がいればうれしいという程度のものであった。
 しかし、わたしたちのような意見が、オリンピックが近づくにつれて封殺され、「決まったことにごちゃごちゃ抜かしている不満屋」というレッテルが貼られ、体制翼賛的な空気が強まってゆくことに対しては十分に警戒的である。
 何故、オリンピックに反対しているのかということに関しては、同書のなかで、論理的な理由を述べているし、これまでも機会あるごとに発信してきた。
 しかし、感情のレベルで、いや、感性のレベルで、何故わたしがオリンピックというものに対して拒否反応を起こすのかについてはうまく説明できるとは思えなかった。
 わたしが同書で書き綴った論理的なオリンピック否定論は、後付けであったのかもしれない。
 マーサ・ナカムラという、わたしの娘よりも年若い詩人の作品を読んでいて、わたしはそのことを少し理解できたように思えたのである。

2020年の東京オリンピックのスタジアム開催中には、赤々と聖火台に火が点されることになるだろう。
 マーサ・ナカムラの詩を読んで以来、わたしはひとつの空想を思い描くことを自ら禁じることができなくなった。

真夏の聖火台の上空には、イナゴの大群が舞っている。そのうちの、何匹かが聖火の中に飛び込む。イナゴの大群の羽音は、あえてそれを言葉にすれば、「オリンピックの犠牲者たち」の叫びであった。その叫びは、もちろん第二次大戦でイナゴの大群のように群れをなして飛び立った特攻隊の兵士たちの叫びにもつながっている。
 それは「さようなら、さようなら、貴様ら、もう顔を見るのも嫌だ」と言っているように聞こえる。
 そして、そのなかに、一匹だけどうしたらいいかわからないというような顔をしたイナゴがいる。それが、円谷幸吉の生まれ変わりのように思えてならないのである。



i 『敗れざる者たち』沢木耕太郎 文春文庫 1979年9月
 ii 『狸の匣』マーサ・ナカムラ 思潮社 2017年10月
 iii 『街場の五輪論』内田樹・小田島隆・平川克美 朝日新聞出版 2014年2月

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