大和書房 WEB限定連載

見えないものとの対話 平川克美

第5回 同じ過ち


反省と、くりかえし

「歴史は繰り返す」と書いたのはヘーゲルだった。(『歴史哲学』第三部第二篇Ⅴ)
「一度目は悲劇として。二度目は喜劇として」とカール・マルクスは付け加えた。(『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』)
 どちらも、歴史解釈としてとても面白いことを言っている。誰もが参照する言葉だが、最初にこういうことを書き記すということは、誰でもできることではない。
 ヘーゲルやマルクスという天才の洞察を持たないわたしは、こんなことを考える。
「同じような歴史がくりかえされるのは、人間というやつはどこまでいっても懲りない生き物だからだ」
 自分を見ていれば、それは誰にでも分かる。
 人々は同じ過ちをくりかえしながら、歳を重ねている。
 ただひたすら、懲りずにくりかえしているだけなのだ。
 少しは、反省したらどうなんだと思うのだが、自分も含めてなかなか反省するのは難しいらしい。
 口先では反省の弁を述べても、それはうわべだけのもので、骨身に染みるような反省はなかなかできないものである。
 だから、歴史は繰り返すということも、言われてみればなんら不思議なことではないような気がする。
 そこに、不思議があるとするならば、それはなぜ、人は同じことを繰り返すのかということである。

くりかえしてこんなにもくりかえしくりかえして
こんなにこんなにくりかえしくりかえしくりかえしくりかえして
くりかえしくりかえしつづけてこんなにもくりかえしてくりかえし
いくたびくりかえせばいいのかくりかえす言葉は死んでくりかえすものだけがくりかえし残るくりかえし

そのくりかえしのくりかえしをくりかえすたび
陽はのぼり陽は沈みそのくりかえしにくりかえす日々
くりかえし米を煮てくりかえしむかえるその朝のくりかえしにいつか夜のくることのくりかえしよ

云うな云うなさよならとは
別れの幸せは誰のものでもない
私たちはくりかえす他はないくりかえしくりかえし夢みあいくりかえし抱きあつてくりかえしくるよだれよ
もう会えないことをくりかえし
いつでも会うくりかえし会わないくりかえしの樹々に風は吹き

今日くりかえす私たちの絶えない咳と鍋に水を汲む音
おお明日よ明日よ

何とおまえは遠いのだ
(谷川俊太郎「くりかえす」中央公論社 昭和58年3月)

「くりかえす」という言葉を幾度もくりかえすことで、くりかえしの意味に迫ろうとする詩人の剛腕に恐れ入る。ほとんど、めまいがするほどだ。そして、このくりかえされるくりかえしのリズムが身体に馴染んでくるほどに、「明日は遠い」が実感される。
 歴史は変化し、社会も刻々と様相を変化させるが、人間だけはほとんど変わらない。同じことを何度でもくりかえして懲りないというところだけは、変わらないのだ。
 そこに、人間の限界があり同時に救いもあるのかもしれない。

社会の進歩に合わせて人間が進歩すると考えるのは幻想で、未来を信じる進歩的な人間ほど、その幻想にしがみつくのだろう。
 人間は同じ失敗をくりかえす。いや、そうではない。成功だろうが、失敗だろうが、同じところをぐるぐる回っているだけで、進歩というものがないのだ。
 別の言い方をするなら、反省ということができない。反省がないから、本当の意味での進歩がない。明日が遠い。
 反省するふりはするのだが、ほんとうのところ反省しているわけではない。ただ、やり方がまずかったとか、次はもっとうまくやれるはずだとか思っているだけであり、要するに反省ということが何を意味するのかがわかっていない。

曾子曰、吾日三省我身。為人謀而不忠乎、與朋友交而不信乎、傳不習乎。
(曾子曰く、「吾日に吾身を三省す。人の為に謀りて忠ならざるか。朋友と交はりて信ならざるか。習はざるを伝ふるか」と)

さすがに、孔子は深い。注意しなくてはならないのは、これは孔子の言葉ではなく、孔子よりもずっと年下の弟子である曾子の言葉である。反省する弟子の姿からさえ孔子は学ぶのである。曾子は常に、以下の三つのことについて自らを省みているのだと語った。だから、重要なのはその「以下のこと」である。しかし、多くの場合、「吾日に吾身を三省す」までは覚えているのだが、何を反省するのかという後半の部分は忘れてしまう。
 だから、反省というポーズについては慣れ親しんではいても、それが何を意味しているのかまでは掘り下げないのである。
 曾子の言葉の中には忠、信という一筋縄ではいかない儒教的キーワードが出てくるが、言わんとしていることはおぼろげながらわかるだろう。人のためとは言うが、本当に心の底から他者のために動いているのか。友人なんていっているが、本当に友人を信じているのか。一知半解の生半可な知識をひけらかしてはいないか。
 曾子は、自らしでかしたことのやり方を反省しているわけではない。
 自らの存在そのものを、省みるというのである。
 常に省みる自分とはどういうことなのか。
 ほとんど自己否定とも思える苛烈さである。実際には、誰も、こんな風に、日々自らを省みることはできないだろう。


悲劇をもたらす集団的無反省


社会に目を向けて見れば、無反省ぶりがあらゆる局面で顔を出す。
 他者のため、経済のため、繁栄のため、お国のために行動することが正義であり、使命であると思いたいのが人間というものであるのだろうが、ほとんどの場合は、そこに隠れている自分の欲望を見ようとはしない。
 しかし、本当はその自分を疑わなくてはならない。
 自分の欲望を凝視してみなくてはならない。
「人の為に謀りて忠ならざるか」と。
 自らの存在に意味があると思いたいほど、その意味を保証してくれる正義の旗が必要になる。勢い言葉は政治的な勝ち負け主義になり、感情的にもなる。冷静さを失えば、政治的な判断はできなくなる。反省とは、本来的に静謐の中でしか起きない心の変化である。誰も、本当には反省していないのである。

集団的な無反省は、悲惨をもたらすことになる。
 ノモンハン事件であれほど手ひどい敗北をし、その原因も自明であったのに、反省のないままにガダルカナルでも、インパールでも同じ過ちをくりかえしてきた。
 あるいは、チェルノブイリやスリーマイルの原発事故を知りながら、経済効率性という言葉に勝てず、誤った過剰な自信で調子に乗って、自分たちが制御できないような原子力発電を止めることができない。
 一旦決めて始まってしまうと、そこに意地や利権が生まれ、もはやそれが合理性を失ってしまっていても止めることも引き返すこともできない。
 足尾鉱毒事件の後も、水俣の海を水銀の毒で汚染し、新潟県阿賀野川下流の有機水銀汚染をくりかえした。
 同じ過ちをくりかえしている。「同じ過ち」という言葉をくりかえしている。
 今なお世界の至る所でくりかえされている戦争をみれば、どれほどの悲惨や犠牲を目にしても、同じことをくりかえしている愚かな人間の姿が浮かんでくる。
 わたしが敬愛していた先輩は、 「にんげんは愚かだ」「愚かさがわからないほど愚かだ」という言葉を残して逝ってしまった。
 差別、戦争、破壊、人災といったことを何度くりかえしても、根本的な部分は何も変わっていない。それが人間だと言えばそれまでだが、この災厄のくりかえしは文明の進歩とともにより凶暴で大きなものになっているとも言える。そんなことをくりかえしていれば、わたしたちに未来はないかもしれない。明日は永遠に来なくなってしまうかもしれない。
 どこかで、誰かが、もうやめようと言わなくてはならない。
 反省とはどういうことなのか、その意味を知らなくてはならない。


抵抗する人々

先日、長崎県の小さな里山を流れている石木川のダム建設に反対して、半世紀もの長い間活動している13家族のドキュメンタリー映画を観た。
『ほたるの川のまもりびと』という映画である。
 長崎県川棚町川原(こうばる)は、このダムの建設によって水没する。川原に住み、畑を耕し、小川から魚を採集しながら自給自足に近い生活をしていた人びとは、自分たちの生活の場がダム建設によって失われることに抗議し、この村と自らの生活を守るために抵抗運動を続けている。
 一方、県はダム建設を続けようと予算を計上し、業者は建設予定地に重機を搬入しようと、チャンスを伺う。住人たちはそれを見張り、シャベルカーが入ろうとすれば、シャベルの下に潜り込んで自らの身体を盾にして、侵入を食い止めようとする。
 長崎地裁(武田瑞佳裁判長)は、2018年7月9日、地権者ら約100人が国の事業認定の取り消しを求めた訴訟の判決で、請求を棄却した。それでも、戦いは続いていくだろう。
 映画では、強制代執行側との激しい闘争の場面は、ほとんど出てこない。
 カメラは、地産地消、自給自足を可能にしている美しい自然の中で生きている人々の、日々の暮らしを淡々と追い続ける。
 実のところ、このダム建設の話が持ち上がったのは、1964年の東京オリンピックの2年前、1962年ことである。建設省が全体計画を認可したのが1975年。
 高度経済成長期に計画され、ベビーブームの折に認可されている。
 半世紀以上が経過して、日本の経済事情も、人口動態も大きく変化し、当初のダム建設の目的はほとんど意味を持たなくなっている。すなわち、佐世保市の人口増大を賄うための利水と、石木川の本流である川棚川の洪水防止である。人口減少フェーズに入っている今、利水に対する需要は消失している。洪水についても、計画以後いまに至るまで、洪水災害はない。先日の西日本集中豪雨による甚大な被害についても、石木川流域は無事であり、流されたのは建設用機材だけであったと聞いている。
 もう、ダム建設の要件が失われているのである。にもかかわらず、長崎地裁は住民の訴えを退け、佐世保市も、長崎県も、根本的な見直しに着手しようとしない。学者や専門家が、協議するための公開の話し合いの場を設けたいと言っても聞き入れない。
 誰もが、内心ではこのダムは不要であると知っていても、引き返すことができないのである。

なぜそんなことになるのだろうか。
 ここでもまた、反省というものの不在を見る。
 政治は、勝ち負けの世界であり、敵味方の世界である。
 政治的な言葉は、だから自らの信念のプロパガンダであったり、相手を貶めたり、諦めさせたりする武器のようなものである。
 政治的な言辞をいくら重ねていっても、相手を反省させることはできない。
 自分も反省できない。
 この映画が人々の心を打つのは、そこに政治的な言語とは異なった、静かな反省の言語が息づいているからである。


詩人の反省

では、反省の言葉とはどのようなものなのだろうか。
 わたしたちはそのような言葉に触れたことがあったのだろうか。
 およそ、政治の世界とは無縁に生きてきたように思っていた詩人によるこんな作品がある。

くりかえしのうた

日本の若い高校生ら
在日朝鮮高校生らに 乱暴狼藉
集団で 陰惨なやり方で
虚をつかれるとはこのことか
頭にくわっと血がのぼる
手をこまねいて見てたのか
その時 プラットフォームにいた大人たち

父母の世代に解決できなかったことどもは
われらも手をこまねき
孫の世代でくりかえされた 盲目的に

田中正造が白髪ふりみだし
声を限りに呼ばはった足尾鉱毒事件
祖父母ら ちゃらんぽらんに聞き お茶を濁したことどもは
いま拡大再生産されつつある

分別ざかりの大人たち
ゆめ 思うな
われわれの手にあまることどもは
孫子の代が切りひらいてくれるだろうなどと
いま解決できなかったことは くりかえされる
より悪質に より深く 広く
これは厳たる法則のようだ

自分の腹に局部麻酔を打ち
みずから執刀
病める我が盲腸を剔出した医者もいる
現実に
かかる豪の者もおるぞ
(『人名詩集』より「くりかえしのうた」全文)

これが、あの「わたしが一番きれいだったとき」や「自分の感受性くらい」の茨木のり子の作品であることをいったいどれだけの読者が知っているのだろう。
 この詩人は、高校生たちを叱責しているのではない。
 糾弾の矛先はそれを観て手を拱いている「分別ざかり」の大人たちに向けられている。
 そして、それは茨木のりこという詩人自身にも向けられている。
 わたしは、もう一度、この詩人の作品を読み返して見ることにした。
 そして、驚いたことに、これまで、やさしい女性詩人の手によるみずみずしい感情の描写や励ましの表現だと思っていた言葉のひとつひとつに、深い憤りや、自らを突き刺すような反省が込められていることを思い知ったのである。
 そして、社会性や公共性というものと距離を置いて詩を書いていると思っていた詩人が、まさに社会について、それをあたかも自分の身体の延長であるかのように、鋭敏に反応する姿を垣間見る思いがしたのである。
 言うまでもなく「くりかえしのうた」は、差別の問題を扱った詩である。
 差別がくりかえされるのは100パーセント差別する側の問題であり、差別をやり過ごしている側の問題である。差別するものは、他者を貶めることで自己承認してもらいたかったり、自分の鬱憤を晴らしたかったり、自分が差別されることの恐怖から逃れたいという欲望に支配されていることに、気づかない。自分の欲望が見えないから、何度でもくりかえす。やり過ごしている周囲の人間も同じである。差別するものが、自分の欲望がどれほど、けちくさく、薄汚れた、逃避的な自己承認欲求であるのかを見ようとしなければ、差別はなくならない。
 そして、その卑小な自己承認欲求を見つめることからしか、ほんとうの反省も始まらない。
 詩人は、そう告げているように思える。

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