はじめに


あれは数年前のこと。
ぷちっと鼻毛を抜いたとき、何かがおかしかった。
これ、真っ白じゃないか。
がーん、となる。
それ以前にも、髪の毛のなかにちらほらと白髪がみつかることはあった。
ただ、そんなに気にしてなかったのだ。
沢山のなかには、そりゃあるだろう。
でも、鼻毛は不意打ちだった。
慌てて鏡で自分の鼻のなかを覗いてみる。
暗くてよくみえない。
穴に指を入れてむにっと裏返す。
真っ白。
きゃー。

あれは十数年前のこと。
真夜中の吉野屋で、私は紅生姜を大量にまぶした大盛の牛丼と必死に戦っていた。
そのとき、突然、脳に宇宙からのメッセージが届いた。
「『並』デイインジャナイ?」
え、と思う。
「並」って、あの「並」?
そんな。
考えたこともなかった。
生まれてこの方、私にとって牛丼とは「大盛」もしくはそれ以上。
でも。
確かに。
ここのところ、全部食べ切るのが妙に苦しい。
「並」。
「並」。
そうか。
そんな選択肢があったんだ。
数日後、「並、並」と呟きながらお店の前に立ったとき、私は初めて牛丼屋に来た日のようなどきどきを感じた。

あれは三十数年前のこと。
銀座の歩行者天国で普通に歩道を歩いている自分に気づいて、あれ? と思う。
自分の胸に訊いてみる。
 
「車道を歩かなくていいの?」
「うん」
「せっかくの歩行者天国だよ」
「ああ」
「今日だけだよ。いいの?」
「いいんだ」

歩行者天国だからって喜んで車道を跳ね回るのは子供だ。
僕は歩道。
ふふふ。
彼らとはちがうんだ。

あれは四十数年前のこと。
私は叫んでいた。

「僕、五歳で五月生まれ!」

周囲の大人たちは皆、にこにこときいてくれた。
私はますます元気に叫んだ。

「僕、五歳で五月生まれ!」

でもなあ。
「だから何?」って話である。
今にして思えば。

「僕、五歳で五月生まれ!」

そうだね。
確かに、間違っちゃいない。

「僕、五歳で五月生まれ!」

でも、いくら間違ってなくても。
いくら周囲の大人たちがにこにこときいてくれても。
十三歳や、二十歳や、三十二歳や、四十八歳の「私」が許せないんだよ。
そんなことを嬉しそうに云いまくってるお前を。

「僕、五歳で五月生まれ!」

大人になった「私」たちは、小さな「私」を取り囲んで、一斉に冷ややかな視線を浴びせる。

「だから何?」
「だから何?」
「だから何?」
「だから何?」

「私」はちょっと驚いたように黙ってしまった。
それから、にこっとして云った。

「五歳で五月生まれなの」

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