第1回 


子供の頃はできなかったことが、年を重ねるにつれてできるようになっていく。
今の私は、

  • ひとりでトイレに入れる
  • 洋服の釦を嵌められる
  • 靴紐が結べる
  • 漢字が読める(読めないのもある)
  • 電車に乗れる
  • 車の運転ができる

のである。
なんと成長したことか。
大人の「私」は子供の「僕」に圧勝だ。
が、全勝というわけではない。
例えば、五歳のとき、「僕」はデパートの大食堂で、突然、踊りながら歌い出したらしい。

♪金のない奴ァ オレんとこに来い
♪オレもないけど心配するな

その姿のあまりの可愛らしさに周囲は笑いと拍手喝采に包まれた。
というのは、親の云うことだから当てにはならないが、とにかく今の「私」には、そんな芸当はとても無理だ。
もしやってみたとしても、拍手喝采など望むべくもない。
警備員を呼ばれてしまうだろう。
この点に関しては「私」は「僕」に勝てない。
ただ、負けたとも思わない。
その行為は、内面的にも、社会的にも、子供だからこそできたこと。
「私」にはハンディがあるのだ。
だが、そのようなアドバンテージとは関わりなく、大人になるにつれてできなくなったことや苦手になったものがある。
例えば、虫。
「僕」は虫が大好きだった。
夏は毎日近くの林に虫採りに行く。
この世の宝物の第1位はカブトムシ。
第2位はクワガタムシ。
第3位はカブトムシのメス。
というくらい。
だが、現在の「私」にとって、カブトムシは第193857位くらいだと思う。
二度と触れなくても別に困らない。
蝶やバッタに到ってはむしろあんまり触りたくない。
あんなに大事な「僕」の友達(ときどき殺してたけど)だったのに。
周囲の人々に話をきいてみると、どうやらこれは「私」だけに限ったことではないようだ。
多くの人が大人になるに連れて虫が苦手になってゆくらしい。
不思議だ。
どうしてなんだろう。
子供は虫を仲間と感じるような世界に生きてるってことだろうか。
或いは、自分よりも小さいものへの関心かもしれない。
小さな子供にとっては、人間の世界に生きている限り、周囲はほとんど自分よりも大きなものばかり。
虫は自分よりも小さい。
しかも、おもちゃとちがって命をもっている。
それが手のなかで自由になる。
という興奮があったんじゃないか。
一方、大人はどうか。
カブトムシのお腹のところがごちゃごちゃしてて気持ち悪いとか、よくみると背中や脚にもびっしり毛が生えてて気持ち悪いとか。
虫以外でも、鳩の足が気持ち悪いとか、キリンの舌が気持ち悪いとか、そんな感覚がどんどん芽生えてくる。
それらはいずれも、生き物がおもちゃではなくて、そのなかに本当の命が宿っていることを感じさせる部分だと思う。
だからこそ、直視したり、触れたりしたくない。
どうしてだろう。
何故、生々しい命に関わることが苦手になるのか。
自分自身が命の塊である筈なのに。
いや、だからこそ、なのだろうか。
私たちの存在はもともとはこんな風にカテゴライズされると思う。

「私 < 人間 < 哺乳類 < 動物 < 生物」

私である以前に人間である以前に哺乳類である以前に動物である以前に生物。
ところが、大人になるにつれて右端の実感から遠ざかって、それを忘れてゆく。
左端に近い自意識だけで生きることになるのだ。
大人の生息域として、例えば、会社のことを考えてみる。
エアコンの効いた空間。
周囲はスーツを着た大人ばかり。
その場の全員が当然人間で、当然大人。
そんな均一な環境では、ひとりひとりが「私」の部分だけを意識して生きてゆくことになる。
「私」を取り囲んでいる部長とかネクタイとか査定とか株式とかコピーとかシュレッダーとか有給休暇とか、他の生物とはあまりにも無関係。
でも、問題ない。
だって、会社のなかにキリンとか鶴とかアザラシとか存在しないから。
動物どころか子供すらいないのだ。
でも、虫はいる。
虫だけが会社や家のなかにまで入り込んで、生物としての我々の偏りを刺激する。
彼らの姿によって、或いは直接刺されることによって、エアコンの部屋でネクタイを締めてコピーを取っている「私」もまた、血の詰まった肉の塊であることを、突然、思い知らされる。
個人としての「私」だけでなく、種としての「私」が、長年いろいろがんばって、やっとここまで遠ざかったのに。
原始のスタート地点に引き戻される。
だから、生理的に怖れるんじゃないか。

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