第2回 体力


公園などで小学生たちが遊んでいるのをみると、凄いなあ、と思う。
歩いている時間帯が極端に少ない。
理想のサッカー選手のようにずっと走っているのだ。
そこは別に走らなくてもいいんじゃないか、というところも走る。
基本が走り。
今、私があの真似をしたら、たちまちばててしまうだろう。
幼児が駅の階段を上っている姿にも感心する。
だって、彼らにとっての一段は、自分の体の三分の一とか四分の一くらいの高さに相当しているようにみえる。
脚だってあんなに細い。
歩く技術に関しても覚えたばかりの初心者。
にも拘わらず、疲れをみせずによいしょよいしょと上ってゆく。
私が比率的に同じ高さの巨大階段を上らされたら、どうだろう。
途中でギブアップするにちがいない。
無理だ。こんなの巨人の階段だよ、と。

さらに凄いのは赤ん坊。
彼らが泣き喚くときの爆発的な声量と持続力、あのエネルギーはどこから来るのか。
試しに、あの横に並んで、同じ音量で泣いて対抗してみたらどうか。
絶対に負けると思う。
こっちは二十秒も続かないだろう。
君たちは一体どうなっているんだ。
喉や肺は痛くないのか。
いずれも見慣れた現象だから、普段はなんとも思わないけど、改めて考えてみると不思議だ。
彼らの体力はどうなっているのか。
とはいえ、体力を単に筋力とかそういう意味に捉えるなら、大人の方が当然勝っている。
私だって腕相撲なら小学生には負けないし、跳び箱なら幼児には負けないし、50メートル走なら赤ちゃんには負けない。

彼らの謎のパワーは、体力というよりも生命力に近いのだろう。
しかし、生命力っていったい何だ。
わかるようでわからない。
おんなじように生きている者同士の間でも、生命力にはちがいがあるってことか。

人間のわたしにわからぬ体力に夜中を過ぎても蝉が鳴きゐる  河野裕子

こんな短歌がある。
蝉がとてつもない音量で延々と鳴き続けることが「人間のわたしにわからぬ体力」と表現されているところが面白い。
だが、蝉の場合は、鳴くと云いつつ正確には、あれは「声」ではないだろうし、魚が泳ぎ続けられるように、そういう仕組みが内蔵されているのかもしれない。
また人間的な見方からしても、地中の数年間で蓄積された生命力が地上を謳歌する数日間に爆発している、などと考えて納得してしまいそうだ。

では、人間の赤ん坊や子供の生命力はどこから来るのか。
なんとなく、彼らに仕込まれた「未来の時間」に関連しているように感じる。
厖大な未来を生きるためのパワーが、今、目に見える形になっているような感触。
これをより現実的に云い換えると、前述の走り続けるとか、階段を上り続けるとか、泣き喚き続けるといったことに関しては、使用した分の体力をチャージする能力の問題かな、という気がする。
彼らは走りながら、階段を上りながら、泣き喚きながら、同時にみるみる回復しているんじゃないか。
大人がいくら筋力や瞬発力で勝っても、その部分では子供に到底叶わない。
大人になっても徹夜で遊ぶこと自体はできる。
問題はその後だ。
三十代の後半くらいのときに「江戸川乱歩原作映画特集5本立てオールナイト」というのを観たことがある。
そのままファミリーレストランで朝定食を食べながら、意外に元気な自分が嬉しくて、まだ若いじゃんと思っていた。
が、それからが大変だった。
なんと一週間経っても体調ががたがたで戻らない。
人間は単純な体力そのものではなくて、それをチャージする能力から衰えることを知った。
「未来の時間」を前借りできなくなるのだ。

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