第3回 性的感受性


小学生の頃、ませた同級生から、女性のあそこには穴があるらしい、と教えられて、「?」となった。
ゴルフのグリーン上のカップを想像する。
だって穴と云ったらあれだろう。
本当にあんなのがぽっかりと開いているのだろうか。
さらに、3つあるらしい、という続報を受けて、「?」がいっそう巨大化する。
新たに思い浮かべたのは、ボウリングの球に開いている穴である。
だって3つの穴と云ったらあれだろう。

今振り返ると、子供ネットワークの情報を元にしてどこまでイメージを膨らませても、現実には全然近づけていなかったことがわかる。
インターネットなど影も形もない時代のことである。

それにしても、と改めて思う。
あれはやっぱり穴とは云い難いんじゃないか。
耳の穴とか鼻の穴の方がずっと穴らしい穴だ。
臍でさえもうちょっとは穴だろう。

その頃の思い出のひとつは、辞書で「セックス」とか「性交」とか「交合」とか「まぐわい」とかの項目を引きまくったことだ。
「セックス」を引いたら「性交」といわれたから「性交」を引いたら「交合」といわれたから「交合」を引いたら「まぐわい」といわれたから「まぐわい」を引いたら「セックス」といわれた。
どこまで繰り返しても真相(?)には辿り着けない。
何かが僕の行く手を曖昧に、しかし分厚く阻んでいるようだ。
だが、「まぐわい」という突然の平仮名にはエロさを感じた。
「まぐわい」、うわっ、よくわからないけど、これはエッチだ、と興奮できた当時の自分に感動する。
だって、平仮名四つの組み合わせに過ぎないのだ。
なんという鋭敏な感受性だろう。
今の私にはとても無理だ。
あの百倍の刺激を受けても、当時の感じ方には届かないと思う。
そんなことを考えつつ、或る詩のことを思い出した。

四元康祐の『世界中年会議』は、「先進諸国における中年の人権の確立と向上」をテーマにした架空の世界会議の模様を、一見真面目そうな文体でレポートしたものだ。


また部会とは別に、個人的な体験を報告し合う会も並行して催されて、俺にとっては部会以上に興味深かった。たとえばアメリカの一中年が行った「ハードコアポルノを見ても自分はもう興奮しないが、日曜日の早朝、分厚い新聞からこぼれ落ちる折り込み広告のなかの下着姿の女たち、家族が起きてくる前の静かな明るい台所でデカフェ片手に茫然と眺める彼女たちにはついつい勃起してしまうことがあって、それを自覚した時に自分は中年だと認識した」と云う報告は参加者全員に強い感動を与え、俺自身国籍や職業などさまざまな属性を越えて中年という普遍的な主体が存在することを改めて確認する最大の拠り所となったのだった。

--『世界中年会議』より


わかる、と思いつつ、不思議な気持ちになる。
私には、中年どころかまだ子供だった時代に、これとよく似た思い出があるのだ。
インターネットもなく、エロ本も入手困難だった頃のこと、私は新聞に入ってくる折り込みの下着広告を宝箱に入れて隠し持っていた。
或る日、大変なことが起こった。
その宝箱の中身が母親に発見されてしまったのである。
だが、「駄目じゃない。こんなゴミを溜めて」と云われただけだった。
私は心底ほっとした。
母は気づかなかったのだ。
その「ゴミ」が実は宝物であるということに。

『世界中年会議』の中年と、当時の私は似ているようで実は全くちがっている。
子供の私にとって、ささやかな宝物の意味は明確である。
それは未だ見ぬ性的世界への入口だった。
その扉の向こう側には無限のエロ世界が広がっている。
これから僕は白いブリーフひとつでその世界に漕ぎ出してゆくんだ。

では、中年の心はどうなのか。
「ハードコアポルノ」をみてももう興奮しない男にとっての折り込み広告の女たちとは、一体なんなのだろう。
一周回ったノスタルジーか。
ちょっとちがう気がする。
おそらくは性的な作為の無さがポイントなのだろう。
「ハードコアポルノ」の女性とはちがって、下着広告のモデルたちは男を興奮させようとは思っていない。
彼女たちはあくまでも商品の購入者たる同性のために微笑んでいるのだ。
そこに反応するのは、エロのためのエロに麻痺した男性、エロのためのエロについていけなくなった男性、エロのためのエロ以外のエロを求める男性、という存在ではないか。

そう考えると、同じ下着広告が全く逆の意味をもっていることに気づく。
子供の私にとって性的世界へのシンプルな入口だったそれが、中年の私にとっては性的世界からの倒錯的な出口になっているんじゃないか。

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