13 恋愛、どうする!?

40歳を過ぎた人は、恋愛やセックスのことをどうしているのか。私はいつもその答えを探していたし、その手の記事や本はよく読んでいた。いろんなことが書いてあった。恋愛に年齢は関係ないとか、セックスは逆に年齢を重ねたほうがよくなるとか……。でも知りたいのはそんなことではなかった。ニーズがあるのか。それだけだった。

そのことに関して、心を落ち着かせてくれるような、本当のことだと思える答えはぜんぜん見つからなかった。いつだって若い人間は傲慢なもので、20代の頃は30歳を過ぎたらもう、恋愛の相手にもセックスの相手にも困るようになるのだと思って怯えていたし、30代の頃には、やはり、40歳を過ぎたらもう恋愛でもセックスでも、みじめな思いをすることが増えるのではないか、と怯えていた。

30代の後半、私は焦っていた。恋愛のブランクもあったし、結婚したいと思っていた。つきあおうか、という流れになったら、真っ先にその可能性を聞いた。将来を考える気はあるのか、と。約束が欲しいわけじゃない。必ずしも結婚という形でなくてもいい。けれど、「この人だ」と思い合って、積み重ねていくような関係が欲しかった。だって、これまでの恋愛は、どんなに激しくても、どんなに深くても、壊れて消えていくだけで、支えてくれた相手はもう私の側にはいない。ある人は奥さんを、ある人は奥さんや子供を支えていて、もうそんなところに私の割り込む余地などないし、私のほうだってそんなことはしたくない。

私は子供が欲しいと思っていない。だから、私が求めていたのはただ、「終わらない恋愛」だった。そんなものが本当にあるかどうかは別として、欲しかったのはそれだけだった。

恋愛は自分を映す鏡だとか言うけれど、今ほどそのことを実感しているときはない。「将来をどう考えているか」なんて、質問のようで質問ではない。「私と同じものを求めていないなら去って」と言っているのと同じだ。私はそういう女なのだ。そして、同じものを求めていると言われても、同じように考えていると言われても、自分のほうが気まぐれに他の人に心を移すこともあった。つまり、そういう女でもあったのだ。誠実でなく、矛盾していて、誘惑に弱い。人に何かを求める資格なんか、ない。

恋愛だけは、回数を重ねても、うまくなっていない自信がある。あれだけ悪い男にひっかかり、振り回され、あんな思いは二度とごめんだと、何度も死ぬような思いをしたくせに、変わらないのだ。「病気になるからこれ以上甘いものを食べちゃダメ」と言われても、ケーキのガラスケースばかりを見つめてしまうように、好きなものは好きなのだ。私は、ガラスケースに入った、魅力的でふしだらで、女癖が悪く、だからこそ女をよく知っていて、女の扱いに長けているような男をじっと見てしまう。たいてい、そういう男は自分の見せ方を知っていて、うまくデコレーションしている。その演出も込みで、良く見える。そういう男が、世間的にはろくでなしだとわかっていて、ガラスケースから出して自分の手元に置けば、自分の内臓が灼けるほど苦しむとわかっていても。

終わらない恋愛が欲しくて、誠実で自分だけを見てくれる人と穏やかに過ごしたい、できれば一生。そういう気持ちと、どうしても女癖の悪い男に惹かれて、のぼせあがってしまう気持ちが、同時にある。奥さんにバレることを恐れつつ誘惑してくる既婚男性はこういう分類には入らない。もう結果が見えててつまらないからだ。セックスだけして遊びたいわけじゃない。ということは、本気で振り回されることを、私はどこかで望んでいたのだろう。何度もそれで死ぬような思いをしたくせに。

年齢による引け目を感じることは、なくはない。鏡を見れば、自分の年齢ぐらいわかる。抱き合えば、肌の質感が若い女の子とは違うのがわかる。でも、そういうのは、些細なことだ。

私が、男に振り回されている瞬間、傷つきながらも恋愛の醍醐味を味わっているように、男のほうだって振り回されながらそれを味わいたがっている。そして、そういうことができる女、振り回す側にいられる女に、私はなれたことがない。

甘えるのが下手で、本音を言うのが下手で、めんどくさい女だと思われるのが怖くて不満を言えない。言うときには不満がものすごく溜まっているから、すごく嫌な言い方になる。かわいげなんかどこにもない。

自然に男の心をそそり、欲望をそそり、関心を持たせ、引き込んでゆく女を見ていると、どうして自分はそのように生まれなかったのだろうと思ってきた。何百回、何千回と思ってきた。床に頭を打ちつけながら思ったこともある。恋愛の中で、他の女と自分を比べてしまう瞬間がいちばんつらい。自分があの子のようだったらうまくいっていたかもしれない、と思う瞬間に、目の前が暗くなる。自分で自分の人生を否定すると、目の前が暗くなるものだ。

爪を何色に塗ろうが、どんなメイクをしようが、どんな服を着ようが、そんなことは小さな影響しか及ぼさない。圧倒的にきれいで、ずば抜けてかわいくて、魅力的な身体をしていて、性格が良くて ―― そういう女が近くに来たら、自分なんかなんの意味もないゴミクズみたいな存在に思える。石田ゆり子さんのinstagramを見ていると、あまりにかわいすぎて言葉を失う。もう嫉妬すら起きない。目の前に石田ゆり子さんが現れたら、私にできるのは、横にいる男の手を握り、どうか行かないでと願うことだけだ。でもわかっている。石田ゆり子さんとのデートのほうが絶対に楽しいし、心安らぐし、彼女の笑顔を見ているだけで幸せな気持ちになれるんだと。よくわかるだけに、なんの抵抗もできそうにない。

40歳になっても、恋愛やセックスはできるのか、という問いに答えるなら、イエスだ。はっきりそう言える。別に30代とそんなに変わらなく思える。ただ、そこで、これまでの人生の総決算みたいに、自分の恋愛の真実に向き合わなくてはならなくなった。たまたまかもしれないが、私の場合、それは40歳になる手前でやってきた。

私は長いこと、自己評価が低かった。物心ついたときからそうだった。仕事や他のことではなんとか少し自信をつけることもできたし、今は自分に対して不当に低い評価をしているつもりはない。

特に恋愛では、自己評価を低くしていると、そこにハゲタカのような男たちが寄ってきて、よってたかってお前はダメな女なんだから、このくらいの扱いが普通なんだと、ひどい扱いをしていった。だから強くならなくてはならなかったし、自分を守るためには自己評価を上げる必要があった。

それでも、恋愛に関してだけは、まだ歯車がきちんと噛み合っていない感じがある。相手が自分に対し、どのような評価を下そうとも、私は私なのだと毅然としていられる自信がない。そう、私は私なのだ。そのことはわかっている、私は、私以外の誰にもなれない。それでも、変な話だが、私は好きな相手そのものになりたいと思うことがある。

相手の気持ちを理解し、価値観を理解し、自分ではないその人の見方で一緒に人生を見てみたいと思う。

他人と、恋愛という強烈な形で交わりたいと思う気持ちは、私の場合、最終的にそういうところに行く。でも決して、彼にはなれない。私は私にしかなれない。そのことが分断になる場合もあるし、欠けているところを補い合うような形になったり、理解し合うことがお互いの助けになることもある、悪いことばかりではないけれど、私はこのような状況になっている最中は、相手の目線や考えに感づいてしまうことがある。ああ、あの女は彼のタイプだな、とか、今、私に対してテンションが下がっているな、とか。そんなことがわかる。

相手が、私のことを「つまらない、面倒くさい女だ」「切りたい」と思ったとき、私にはそのことがわかる。

わかっても、私は私でしかいられない。自分からは逃げられない。

40歳前後の恋愛には、これまでの恋愛の総決算のようなものがやってくる。これまでの失敗のパターン、成功のパターン、自分の恋愛の、どうしようもないクセ。その中で「お前はどうやって生きていくのか?」と選択を迫られるような感じがある。恋愛ができるか、セックスができるか、そういうシンプルな問題じゃなかった。チャンスはある。けれど、そこでお前は何を選び、どういう自分になるのか、ということを、恋愛を通じて試されているような気持ちになる。

一度通り過ぎてきた、もう片をつけてきた、答えを出してきた、そうした20代や30代前半の「練習問題」よりハードな「本番」が、40前後でやってきた、というのが私の正確な実感だ。みんながみんなそうなのかわからない。でも、自分が自分でいられて、恋愛を「練習問題」や「本番」じゃなく、「楽しむ」ためには、ここで何か自分なりの答えを掴んでこなければいけない気がしている。

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