コンプレックス プリズム 最果タヒ

 

序文

劣等感とはいうけれど、それなら誰を私は優れていると思っているのだろう、理想の私に体を入れ替えることができるなら、喜んでそうするってことだろうか? 劣っていると繰り返し自分を傷つける割に、私は私をそのままでどうにか愛そうともしており、それを許してくれない世界を憎むことだってあった。劣等感という言葉にするたび、コンプレックスという言葉にするたびに、必要以上に傷つくものが私にはあったよ、本当は、そんな言葉を捨てたほうがありのままだったかもしれないね。コンプレックス・プリズム、わざわざ傷をつけて、不透明にした自分のあちこちを、持ち上げて光に当ててみる。そこに見える光について、この連載では、書いていきたい。

05.私は、バカじゃない。

賢さってなんなのだろう。私はよくわからない家電を買うときに、とても安いものとそれなりに高いものがあったら、どうしても高いものの方がいいんじゃないか、という気がして、ついそっちを買ってしまう。それはものすごくバカなことだ、と言われると「そうだよな、バカだよな」と思うけれど、でもどうして家電のことなんかで頭を動かさなきゃいけないのか、いろいろ調べて安くても必要な機能があるものを選び抜いて何たらかんたらするなんてほんと、めんどくさいというのもある。そうやっていつも金欠だったし、買ってからオーバースペックだったなって気づいて後悔することあるけれど、それでも。安くていいものを見つけるというのはとてもとてもかっこよくて、なんならおしゃれで、今風で、超賢いことなんだと思うけれど、でも、やっぱりめんどくさくもあって。バカなことをしているね、と言われると、は? 私はきみになにも迷惑をかけていませんが? という気持ちにどうしてもなってしまうんだ。

うん、バカだよ、と言える人間だったらよかったのか。

そうなれないのは、私が自分を「バカじゃない」と思っているからなのか。わからなかった。というか、認めるのが恐ろしかった。バカと言われるのは本当に辛いんだ。私はバカじゃないから。そうしてこの高慢さが辛い気持ちを生んでいるとしたら、仕方ないのかもと思っていた。せめて、「こいつ自分を賢いと思っているな?」とか思われないように生きなければいけない。私は、たくさんバカなことをするし、バカなことを良しとしたい気持ちの時もある。でも私という人間はバカじゃない、そう思っていたかったんだ。とても、いたたまれない。書いていて、今だって、いたたまれない。懺悔のような気持ちでこれを書いている。けれどよく考えれば、「自分はバカじゃない」って思うことのどこが高慢なのか、わからないのだ。こんなこと、軽蔑されるのではないだろうか、と思っていたくせに、どうして人がそれを軽蔑するのか、考えても考えてもわからなかった。だいいち、人を侮辱する言葉を受け止める必要なんてどこにもないのではないか? どこかで「確かに」と思ったとしても、言葉が侮辱である限り、受け止める義理などないのだよなあ。だって会話じゃないんだもの。

そこまで書いていて思うのは、どうして、バカという言葉が侮辱として働くのかということでした。賢さってそんなにすごいでしょうか。あらためて、考えたいんですけど、賢さがすごかったのって、幼少期だけじゃないですか? たぶん、「きみはバカだ」という言葉の裏には「俺は賢い」がすこしは潜んでいるはずで、でもそれをそのまま言ったところで、世の中は一切受け止めないと思うのですよね。賢いって言われても別に……となるとおもうんですよね。だって他人だし。たとえ、「そっか、賢いんですね」と信じてもらえたとしても、「じゃあ、この赤字をなんとかしてください」とか「じゃあ、iPhoneを超える新製品のアイデアをください」とか依頼されるだけで、褒められることはないだろう。褒められるのは、依頼をうまく達成し、実績ができた時だろう。なにも達成できずにいる賢さは、この世にたくさんあると思います。私は、大学で賢いと思う人にたくさん会ってきたけれど、でもほとんどは「無益な賢さ」だったように思う。でも、それでいいとおもうんですよね。それでいいとおもっている人が多かったと思うんですよね。世の中のためにこの賢さを発揮したい、ということももちろんできるけれど、でも、その人の人生はその人だけのものだから。賢さだって、本来はその人だけのものだから。誰かのために発揮するなんていうのは、本当の本当に、「献身」なんです。それを強いるのはおかしいし、他人にとっては「無益」であることが自然だと思います。それを、受け入れることが、その人を尊重するということじゃないかとおもいます。

話が逸れたナー。とにかく、賢さっていうのは、それだけじゃ誰もたたえやしないことだと思う。それなのにどうして、「バカ」っていうのが侮辱として働くのか、自らの賢さを根拠に、他者を軽蔑してしまえるのかが私はよくわからない。これまで、ずっと、そういうもんだとおもってきたけど。「ばかやな」「あほやな」ってツッコミもあったし、それを受け入れるのが笑いの流れだとおもっていたけれど。でも。

子供のころは、「かしこいね」「すごいね」ってたくさんたくさん褒めてもらったな。物の名前が言えただけで。積み木が積めただけで。「賢い」ってのはそれだけでいいことなんだと思っていた。もちろん、あれは、賢さそのものというよりは、前より賢くなったというその成長を褒めていたのだけれど。それでも私はそれがしあわせで、すこしでも何かがうまくできるようになると、誰かに褒めてもらいたかった。たぶん、今でもおもっている。恥ずかしいことだけれど、私だってたぶん「かしこいね」って言われたいのだ。大人になった今も。言われたいのだ。他人に、バカだと言うことはないけれど、でも、自分が言われた時「バカじゃない」と頑なになるのは、そのことが、きっと大きく関わっている。バカだと認めないのはかわいげがないかもしれないし、バカじゃないと意地をはるのは高慢かもしれない、けれど、私はなんの結果もうんでないのに、なんの利益もうんでないのに、これができるよ、あれがわかるよ、こんなことができるんだよって、誰かに見てほしくて、たまらない。そうしてふと、それが、高慢でもないし、かわいげはちゃんとあることのように今、感じている。これもまた図々しいことかもしれません。幼稚ではあると、思います。けれどすべてがすべて隅々まで大人になることなんてできない。私は心の中で「バカじゃない」と頑なになることぐらい、バカという言葉に必要以上に傷ついてしまうことぐらい、これからは、許していこうと思います。