コンプレックス プリズム 最果タヒ

 

序文

劣等感とはいうけれど、それなら誰を私は優れていると思っているのだろう、理想の私に体を入れ替えることができるなら、喜んでそうするってことだろうか? 劣っていると繰り返し自分を傷つける割に、私は私をそのままでどうにか愛そうともしており、それを許してくれない世界を憎むことだってあった。劣等感という言葉にするたび、コンプレックスという言葉にするたびに、必要以上に傷つくものが私にはあったよ、本当は、そんな言葉を捨てたほうがありのままだったかもしれないね。コンプレックス・プリズム、わざわざ傷をつけて、不透明にした自分のあちこちを、持ち上げて光に当ててみる。そこに見える光について、この連載では、書いていきたい。

06.優しさを諦めている。

いつのまにか、優しくされることが、愛されていることとはイコールではなくなり、そのせいで優しくされても戸惑うしかなくなった。愛されるといってもたった一人の人間として選ばれたいわけではなくて、浅瀬の海みたいに適当に好意を抱かれていたらよかったわけで、子供のころはそうだったはずだ、そうだったと信じている。「好き」ということが、社会や関係性に発展すべきものだという発想がもう憎いんです。私はもっと無責任で無根拠で、なんとなーく、微笑みで見つめてもらえる程度のそういう「好き」がほしいのです。優しくされても、礼儀でしかなくて、好かれてもいないし、そこを期待すれば相手はさっと手をひいて「ちがうちがう、そういうことじゃないから」って否定をはじめてしまうだろう。そのときの、空気が怖い。けれど優しくされて、ただ「ありがとう」って礼儀だけで答えられるほど、私は人間を諦めきれないよ。人と向き合ったなら、好きか嫌いか選びたいのだ。私は、そして好きな人たちとだけ接していたいのだ。お子様ランチみたいな世界観でまだ息をしている。心の底から、好きにも嫌いにもなる気もないし、そういうのは気持ち悪いと思うけれど、私の言葉や行動を好意的に解釈してくれる人がほしいのです。正直。もちろん堂々と言えることなんかではないし、私はだからずっと優しさへの戸惑いを必死で隠して過ごしている。

優しさを諦めている。私は優しい人にはなれないと、もうとっくに諦めている。優しくしてくれる人に憧れることももうできない。昔は誰にでも優しい子がクラスにいると、その子に憧れた。その子に優しくされるたび、死にたくなった。私はその子に好かれていると、つい期待をしてしまった。別に優しさなんてどうだってよくて、自分をちょっと好きでいてくれる人がいる、と思えることが嬉しいのではないかとも、わかっていた。親切にされたってそれはその場しのぎだ、その場の問題を解決したり排除したりすることで発揮されるものなのだから。一時的で、記憶からも消えていく。けれど好かれているかもしれないという期待だけは残っていく。その子を自分もちょっと好きになる、好かれているということが私も少しはましな人間なのかもしれないという自信になる。あっという間に、好かれているとかいうのがただの勘違いだったと思い知り、静かにひとり傷つくのだけれど。

誰にだって優しい子が、誰を好きなのかはわからない。誰にだって優しい、というのは、好きと優しさが直結していないということだから。私は、彼女たちに好かれていると実感することなど永遠にできないんだ。彼女たちの優しさは、私の知っている優しさとは別物だ。すごくて、こわいな。あれをもらうたびに、自分を肯定されたような、ちょっとした安らぎがあったけれど、そしてだからこそ優しさってうれしいな、いいものだな、って思っていたけれど。彼女の優しさには、「好き」はなかった。「肯定」ではなかったんだ。それなら私は、何をもらっていたのかな。今だって変わらず、みんなに優しいことはすばらしいことだと思う。そういう人がたくさんの人を救えることもわかっている。けれど、私は戸惑って、優しさに体を浸していけない。それを幸せと思えない。ありがとうって、礼儀として、気持ちも込めずに言うしかないのか。彼女たちの優しさに満たされないのに、満たされたふりをして過ごしていくしかないんだろうか。そんなことしてしまったら私は、自分の戸惑いや苦しささえそこにあると信じられなくなるんじゃないのか。

だから、今も期待している。たとえあとで失望しても、恥ずかしい目にあったとしても、優しくされるたびに、ちょっとは好かれているのかな、と期待するのをやめずにいる。どんなにその人が誰に対しても優しくて、公平な人だとしても。期待して、心の底から喜んで「ありがとう」と伝えてしまう。

ずっと、私は優しさを諦めている。彼らの優しさをすなおにそのままで受け取って、喜ぶことを諦めている。ごめんね、勝手に期待している。でもちゃんと、一人であとで傷つきますから。優しくしてくれて、ありがとう。