「男の子の育て方」を真剣に考えてたら夫とのセックスが週3回になりました 田房永子

「目の前にいる、生まれたばかりの赤ちゃんである我が息子。この子が、男であることがなんか、嫌」
ある日、自分のそんな奇怪な感情に気づいた、漫画家・田房永子。上の娘が赤ちゃんの時にはこんなこと思わなかったのに。
思えば中学、高校と6年間女子校に通い、生身の男子との交流に飢えながら、少女漫画でファンタジックな男性観を培い、しかし実際に出会い接触するのは「痴漢」という性的な恐怖を与えてくる男たちのみだった──。
もしかして自分は、強烈な男性嫌悪者かもしれない。このまま、男の子を育てるなんてしてはいけない。己の歪んだ男性観の矯正に挑む、ド直球日常報告エッセイ!

09 絶対に乗シーソー拒否した夫

私の育った家庭も、母がなにか、祖母に献上するという形式があった。

母はよく、私をネタにしたおもしろエピソードを祖母に聞かせた。本当の出来事におもしろをだいぶ盛りつけて話す。横で遊んでいてそれが聞こえるとすごく嫌な気持ちになるので、当時幼稚園~小学生だった私は、「ぜんぜんちがう! ちゃんと本当のこと言って!」と母に怒る。だけど「ハイハイ(笑)」「え~? 違ったっけ?」とか言っておもしろ盛りのまま話し、祖母も爆笑していた。

明石家さんまと大竹しのぶが一緒にテレビに出て、さんまが結婚生活の話をすると、大竹しのぶが「いつもそうやっておもしろくしようとして大げさにウソを言う」とふくれるのが恒例だが、それを見ると、私が目の前にいるのに話を盛りまくって祖母の爆笑をいただいていた母を思い出す。大竹しのぶに幼き日の自分が重なる。

いま思えばたぶん、母にとっては、そうやって娘を巻き込んでの「おもしろトーク」を自分の母(私の祖母)に提供し爆笑させる、というのは、欠かすことのできない癒やしの時間だったんだと思う。昔から他のきょうだいと比べ一人だけきつくあたられてきた長女である母。

母が盛るのはおもしろだけではなかった。私の偏差値や学校名や結婚相手のスペック、母が祖母に私のことを報告する時は「聞こえがいいように」表面的な色づけがされていた。

私は祖母から「○○大学しか認めない」とか「医者か弁護士と結婚しろ」とか言われたことは全くない。祖母がそういう事を望んでいるなあ、と感じたこともない。

だから母が「おばあちゃんには永子ちゃんの彼は一流大卒ってことにしておいたから!」とか焦った感じで言ってくると、憎悪に近い嫌悪感がケツの穴から一気に背骨を駆け上って肺へと回る。母に対しては何の言葉も出てこず、呼吸を整えることに集中しなければならなかった。全く意味がわからない。一流大学ってどこだよ。

なぜ母がそんなことをするのか当時はわからなかったけど、最近になってわかった。

母自身の「お母さんに認められたい欲求」がすごくて、でも祖母とのシーソーでは常に下にさせられているので、母は世間的な聞こえをよくすることで「祖母が喜ぶ孫情報」を重しとしてなんとか祖母とのシーソーがちょっとでも上に上がるようにしていたんだと思う。それに、現実のそのままを伝えたらけなされるんじゃないかとか、「なーんだ」みたいな顔をされるんじゃないか、という恐れがあったのかも。これ以上、シーソーで下に行けない、みたいな。いつも母はかなり必死だった。

だけど私からすると、直接けなされなくても「私に関する情報を祖母に伝える時になぜか母がスペックを盛り気味にする」だけで、心の一部が削れた。そしてそこは「結局何をしても母に認められることはない」という失望菌の温床となる。

それでも20代の頃は「母に気に入られるように」「母と仲良くするには」を何よりも一番に考えて暮らしていた。

27歳の頃には、それまで存在感のなかった父が、3世代いい子シーソーの母の席の横に座るようになっていた。そこにいなかっただけで、そこに「父の席」は昔からずっとあったと思う。父は座っても「ダメの重し」を投げてくることはなかったので特に変わりはなかったが、29歳で結婚した時、急に父が「ダメの重し」を一通の手紙にしたためて私に投げてきた。

それまでは「何もしない父」の何もしなさ、が、私にゆとりを与えていた。何もしないから、こっちは勝手に「父は私の味方なのだ」と思い込むことができていた。

だから私の心の世界では、母がどれだけトンチキで迷惑なことをしてきても、「父も私と同じで母のことを『こいつまじヤベー』と思ってる」と思えば3人家族の中で2対1で決着がつき、なんとか心身を保つことができていたのである。

しかし父からもシーソーの上から重しを投げられて、私のプライドはズタズタだった。母と私とずっと一緒に暮らしていた唯一の人物が、私の苦しみを分かってくれていなかったという絶望は、それまでの、母による無数の自尊心破壊行為の数億倍の威力があった。一瞬でゲームオーバーだった。

警察にお世話になったこともない、少年院にも刑務所にも入ったことがない、母が指定した学校に通ってちゃんと卒業し、タバコは吸ったが酒は飲まないしタトゥーも入れず万引きしたこともない、社会人になってからは親に金はもらわず結婚費用も1円ももらってない、自分1人で自営業をして税金も払ってる。私なりに親の教えになるべく背かないようがんばった結果そういう29歳になった。だけど親は、私の「悪いところ」ばかり注目する。さらに結婚式とかで親が要求してくるなんだかよくわからないことにも必死で対応してきた。それでも満足してくれない、次々と「もっと俺らの要求に応えろ」というメッセージを落としてくる親って、一体なんなんだろうと思った。

長年に渡り蓄積された親に対しての疑念と苛立ちと憎悪が、腹の中でおさまりきらず、新婚の夫と一緒にいる空間にあふれ出る。

それまでも、夫にも私と同じように両親の機嫌をとって無制限要求の耐久に協力してほしい、するべきだ! という気持ちと、夫にはこんなおかしい両親と関わらせていはいけない! という二つの感情でグッチャグチャだった。

それが、関わらせてはいけない、の一つになり、今度は「君は悪くない」と言い続けてくれ!が増えた。だけど、泣きながら両親の話をしても、夫は「そういうもんじゃないの、親は。悪気はないんじゃない」と言う。「私がおかしいの?!」と新婚数日間、連日叫んで泣いていたら「もう、親の話は俺にしないで!」ととうとう言われた。
「このままでいたら、私が夫と離婚することになるな」と思った時、親と決別すると決めることができた。

そうやって29歳の時、親と縁を切ることにした。といっても今の日本で親子関係を法的手段で切ることはできないので、連絡を断っただけ。

ものすごくスッキリするのと、強烈な罪悪感で毎日頭と心がグルグルした。自分のグルグルを夫に逐一言うのはやめ、1人で対処してから、それでも聞いて欲しかったら言うということにした。

それから2年くらいかけて「母と父はどういう人なのか」「自分の家庭はどういう家庭だったのか」について考えた。その中でも大変だったのは、「母(と父)に認められたい」という気持ちに折り合いをつける、ということだった。それを正しく表現すると「自分の希望する形で母(と父)から優しくされたい」である。

自分の希望する形では無理なんだとあきらめる、それをもらえなくても私は大丈夫、生きていけるんだ、と自分を励ました。そうすることでその洗脳を解いていった。そして33歳の時に娘を出産した。

その娘が4歳になり、Uさん家族と一緒にいる時の私に話は戻る。

「親と連絡を絶った時、私は29年間乗らされていたいい子シーソーから降りたんだな」とUさんを見て思った。

夫はうちのシーソーに乗らなかったから、私もうちのシーソーから降りることにした。だけどそのあとは、また別の私が新たに作ったシーソーに夫を乗せることになるというか、この時も乗せていたのだが気づいておらず、「Uさんの旦那さん、私の小さい頃の父にソックリだな」とか他人事として見ていたのだった。

そんなふうな、二人目妊娠8ヶ月頃。

Uさん、Pさん、八嶋智人の顔が頭の中でぐるぐる回る。

「私はぜったいぜったい、次の子生まれても、娘を抱っこしまくる!!!!!」
と血管が切れそうなくらい強く決意した。

実際、妊娠してから物理的に娘を抱っこする回数が激減していた。「赤ちゃん産まれたら、ぬっちゃん(娘)のこといっぱい抱っこできるからしようね」と4歳の娘本人に言ってごまかしていた。

しかしもしかしたら私もぬっちゃんを抱っこするのがめたくそ億劫になるのかもしれない・・・ぬっちゃんの汗が生理的に無理になるのかもしれない・・・とも思い、「赤ちゃん産まれたら、おっぱいあげたりするので忙しくてぬっちゃんのことあんまり構えないかもしれないんだよね」と言っておくことにした。

「え?! なに?!(もっと分かりやすく説明して)」と聞かれ、泣き出すかもしれない、とドキドキしながら「ママは赤ちゃんにミルクあげたりしなきゃいけないから、ぬっちゃんとあまり遊べないってことだよ」と言うと、

「ぬっちゃんが赤ちゃんにミルクあげたいんだけど?!」

と真顔で即答された。

ハッとした。そっか、ぬっちゃんと一緒にミルクをあげればいいんだ・・・。

自分の中では、「自分と夫が赤ちゃんの世話をする──〈遠慮〉──娘」という構図だったのだが、4歳の娘の中では「わたし─〈同列〉─ママ─〈同列〉─パパの3人組with赤ちゃん」という感じなのかな、と思った。

なんか、便利そうじゃん…。本人がそういう意識だったら、頼んでるうちに癖になりそう。そこでこちらが「いかんいかん」と線引きして気を使うのって逆に大変そうだなと思った。

この時期、「上が女の子だとお世話してもらえるね」と同じくらい周りからよく言われたのは「赤ちゃんが生まれたら、上の子に構ってあげて」というものだった。特に弟妹がいる人は切実な感じで、「どうか、お願い…」というテンションで言ってくるので、「わかりましたあ!(涙)」という気持ちになった。

夫とも、二人で赤ちゃんにつきっきりにならないよう、ぬっちゃんをどちらかがかまう体制をつくろう、と話し合いを何度も重ねた。

出産ももうすぐに近づいた頃のこと。娘が寝たあと、夫が「産後について決めておこう」と言ってきた。家事分担や大人二人の休憩や休日のシフトを今のうちに決めたいという。

「え? なんでそんな素敵なこと提案してくれるの」というようなことを言うと、「ぬっちゃんが生まれた産後…本当にすごかったからな…あんなことになったら恐ろしいから…あーこわいこわい」と言う。

当時の私は、生まれたてのぬっちゃんを片手に、夫がビールを持つ手にパンチを繰り出していたのである。

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うちの3世代いい子シーソー