大和書房 WEB限定連載

いつまでもたどりつかない日記〜小説家は3度嘘をつく 唯川 恵

vol.1  午前五時の記憶


 今朝はいつもより少し暖かいけれど、でもセーターを羽織らない
とリビングに降りてゆけないぐらいは寒くて、その上少々二日酔い
のせいもあって、目が覚めてからベッドの中で一時間近くもぐずぐ
ずしていた。

 今日の予定は何もない。急ぎの原稿もないし、人と会う約束もな
い。ああ、のんびりできる、幸せ、と思いつつ、本当は少し寂しい。

 昨年まで犬がいて、起床時間は午前五時前後と決まっていた。原
稿書きでどんなに遅く寝ても、二日酔いで吐きそうでも、その時間
になると、犬はお構いなしに起こしにくる。

 勘弁してよ……。

 と、ぶつぶつ言いながら、仕方なく起き出して用意を整え、散歩
に連れ出す。

 夏はまだしも、冬など外は真っ暗だし、ものすごく寒い。犬は闇
にも寒さにも頓着しない生き物だと知ったのは一緒に暮らし始めて
からだった。そうやって小一時間ほどの散歩を終えると、今度は犬
用のごはんを作らなければならない。(ちなみに、ごはんはずっと
手作りだった。今思うと、それがよかったかは疑問)

 ルイ(犬の名前です)さえいなければもっと寝られるのに、朝も
ゆったり過ごせるのに、と何度思っただろう。

 去年、そのルイが死んで、午前五時起床の呪縛から逃れられるよ
うになった。けれども、今もその頃の時間になると必ず目が覚める。
体内時計がそんなふうにセットされてしまったようなのだ。

 あ、散歩。

 と、思って目を開けて、ああ、もうルイはいないんだ、と気づく。

 ルイはセントバーナード犬で、壮年期と呼ばれる頃は七十キロほ
ども体重があった。

 そりゃあもう大変だった。家の床は泥だらけだし、ぶるぶる顔を
振るとよだれが壁や天井にまで飛び散った。換毛期には家中に毛が
散らばり、年に一台掃除機が壊れた。おしっこやウンチの量も半端
ではないので、その始末にも苦労した。

 ルイに「泥のついた足で家の中に入らないで」「よだれを飛ばさ
ないで」「そんなにたくさんおしっこやウンチをしないで」と言っ
ても無駄なので、ため息をつきながら、黙々と始末するしかない。

 私はとてもじゃないが面倒見のいいタイプではなく、むしろ非常
に怠惰で度量の狭い性格だと自覚している。そんな私が、ルイに対
しては(ぶつぶつ言いながらも)、それらをすべて受け入れていた
のだから、我ながら驚く。

 うんと若い頃、ものすごく好きになった男に似たような思いを持
ったこともあったけれど、私ではない誰かのものになってしまった
とたん「今まで尽くした分を返せ」と腹を立てた。勝手に好きで尽
くしていたのに(それも、相手にとっては迷惑だったかもしれない
のに)、裏切られた気がした。

 そんな私が、ルイにだけは見返りを求めずにいたのだから、これ
は無償の愛と呼んでもいいはずだ。

 いや、そうじゃない。そうじゃない、と今はわかる。求めなくて
も、十分過ぎるものをルイは返してくれていた。

 尻尾を振って私に甘えてくるだけで、すべてがチャラになる。た
だそこにいるだけ、無垢な目で私を見上げるだけで、完璧なのだ。

 この感覚は、やはり人間相手では持ち得なかったと思う(実際、
今も持ち得ないと断言できる)。

 ルイが死んだ時、覚悟はしていたけれど、やはり辛かった。しば
らくは仕事も手につかず、ぼんやり過ごした。いつも聞こえていた
ルイの鼻息が聞こえなくなって、家ってこんなに静かだったっけ、
と驚きながら、また泣けた。

 ルイと暮らした九年余りの間には、いろんなことがあった。思い
がけず伴侶を得、幸運にも文学賞をいただいた。東京から軽井沢に
居を替え、母が死に、三年半後には父も逝った。その時々、私のそ
ばにはいつもルイがいた。愚痴も泣き言も弱音も、ルイは黙って聞
いてくれた。そして有難いことに、誰にも口を割ることなく、みん
なあっちに持って行ってくれた。

 犬は人間よりずっと早く年をとる。大型犬の場合はそれが更に顕
著となる。出会った頃のルイは確かに子供だったけれど、三歳にも
なると私の妹のようになり、五歳を迎えると同級生みたいになった。
それから私の年齢を越えて姉のようになり、最終的には母のように
なっていた。私が愚痴ると「しょうがないわねえ、この子は」みた
いな目を向けた。そのたび私は「誰が散歩に連れて行ってるの、誰
がごはんを作ってるの」と、ぶうぶう言ったが、そんな時、ルイは
涼しい顔で聞こえないふりをした。それこそ、亡くなった母みたい
に。

 私は不出来で頂けない飼い主だった。ただ、ルイと暮らすと決め
た時、ひとつだけ誓ったことがある。

 ルイより先に死なない。

 そうでなければ、ルイを失った悲しみと同じものを、ルイに味わ
わせてしまうことになる。

 その約束を守れたことだけが、私を安堵させてくれている。

 最近、ルイを思い出すことも少なくなった。

 けれど、朝、私はやはりいつもの時間に目覚める。散歩に行かな
くていいんだ、とホッとし、そして、あの焼きとうもろこしに似た
香ばしいにおいと、押し付けてくるひんやりした鼻先の感触を思い
出している。

 きっと明日の朝も。

 午前五時の記憶は、いつまで私に残り続けるのだろう。

 今回から、日記を連載することになりました。

 目的やテーマなど何もなく、その時々に感じたことや、日常生活の中で思いついたことなど、ぽつぽつ書いていけたらいいなあと思っています。

 ためになるようなことは書いてないので(今までだって書けたためしはないけれど)、どうぞ気楽に読んでくださいませ。

唯川恵

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