大和書房 WEB限定連載

いつまでもたどりつかない日記〜小説家は3度嘘をつく 唯川 恵

vol.2  登山よもやま話。


 自分でもびっくりなのだけれど、最近、登山をしている。

 きっかけは軽井沢に移住したこと。

 ここは町のいたるところから浅間山が見える。標高2568メー
トル。裾野が町を包み込むように大きく広がっていて、活火山でも
あるのでしょっちゅう噴煙が上がっている。移住した翌年には噴火
に遭遇するという、人生初めての経験もした。

 せっかくそんな地に住み始めたのだから、浅間山を舞台にした小
説を書きたいと思い、それで登ったのが最初だった。

 その時は標高1400メートルにある浅間山荘天狗温泉から、2
000メートルの火山館まで登った。休憩を含めて、二時間半ほど
もかかっただろうか。

 ひと言で言えば。

 きつかった……。

 火山館に着いた頃にはもうバテバテで、まともにお弁当も食べら
れなかった。頂上に立つには、更に500メートルあまりも登らな
ければならない。時間にしたら一時間半ぐらいかかる。当然ながら
体力も気力もなくて、そこでギブアップした。

 その時、もう二度と登山はしないと誓ったはずなのに――。

 半年ほどたって、誘われた時、思い出したのは、しんどかったこ
とではなく、連なる稜線が見事だったな、とか、高山植物がきれい
だったな、いうことだった。確かにしんどかったけれど、今度は経
験もあるし大丈夫に違いない、と、考えている私がいた。

 それで、また登ってしまった。

 そして、またもや精根尽き果てた。

 ところが、また半年ほどたって誘われると、今度こそは大丈夫と
思って……。

 若い頃は、いいことを忘れても、悪いことは忘れられなかった。
褒められたことより、貶された言葉の方がずっと心に残った。たぶ
ん強い劣等感のせいだったのだと思う。まあ、そんな負の記憶が
「いつか見返してやる!」といったエネルギーにもなってくれるケ
ースもあったのだから、それも悪いわけじゃない(特に失恋の場合、
これで乗り越えるしかなかった、ということもある)。

 ところが、年をとってくると、記憶する能力が衰えてくる。記憶
のキャパも小さくなるので、どうせなら楽しいことだけ覚えておこ
う、と本能的に考えるのかもしれない。

 で、気がつくと、しんどかったことをすっかり忘れて、また登っ
てしまうのである(二日酔いが、翌日はあんなに後悔するのに、翌
々日にはすっかり忘れている、のと同じかもしれない)。

 そう言えば私、この業界を辞める時、絶対に殴ってやると心に誓
った編集者がふたりいたのに、それもすっかり忘れていたのはどう
いうわけだろう。あの時は一生許さないと決めていたのに。

 これは、人間として丸くなった、というのとはぜんぜん違う。カ
ッカするのは、今の方がずっと多い。車を運転していても、スーパ
ーに買い物に行っても、いつも何かにカッカしている。ただ、それ
を持ち続けられなくて、翌日には、どころか車から下りた瞬間、も
しくはスーパーから出た時にはもう忘れていることが多くなった。

 今、いちばん負のエネルギーが向かう先は夫だろうか。毎日毎日、
夫は新鮮なカッカを提供してくれる。忘れる暇がない。夫という存
在はほんとうに厄介。もちろん、夫にとってのいちばん厄介な存在
も妻だろうけれど。

 と、話が逸れてしまった。

 とにかく、そんなことを繰り返しているうちに、気がついたら登
山を始めていた。

 登れば、相変わらずしんどいし苦しい。

 けれども、回数が増えるにつれ、少しずつ気持ちが変わっていっ
た。少し体力と筋力が付いたせいもあるのかもしれないが、自分の
身体と対話することができるようになったのだ。

 今は確かにしんどいけれど、あと十分ほど頑張れば抜け出せる、
息が苦しいのは吸ってばかりいるせいで吐く方を意識すれば楽にな
る、というようなことにも気がつくようになった。

 若い頃は、何があっても、身体がカバーしてくれた。体力がある
から無茶もできた。でも、今はそうはいかない。どうしたら、この
くたびれかけた身体を効率よく動かすことができるのか。体力がな
くなった分、自分の身体に問いかける。

 最近、登山の前日はお酒を飲まないようになったし、朝は炭水化
物をたっぷり食べるようにしている。登山中は喉が渇いてなくても
水分はこまめに摂るし、装備もイザという時を考えて慎重に準備す
る。

 昔は、身体が心を支えてくれた。

 でも今は、心が身体を支えている。

 有難いことに、登山はあまり年齢と関係なく、個人個人が自分の
体力を知り、それに合った登り方をすれば、みな同じように楽しめ
る。

 お洒落な山ガールもたくさんいるが、登ってみて、年配の方々の
多いこと、また、そのタフなことに驚いてしまう。私なんかまだま
だ若造の部類だ。七十代なんてザラなのだから。

 今年は泊りがけで涸沢カール(上高地から穂高岳に向かう途中に
ある谷)まで行って来た。

 初めての山小屋はなかなか刺激的だった。

 まずお風呂はないし、石鹸、クレンジング、歯磨き粉もNG。ト
イレは一回百円。使用済みの紙は流せない(備え付けの箱へ入れる)。
混んでいるせいもあって、三つの布団に五人で寝た。顔はすっぴん。
その上、高地のせいでむくんでいる。髪も洗ってない。着替えも最
小限。

 でも、平気。みんなそうだし、お風呂なんか三日ぐらい入らなく
たって別に死にやしない。

 目の前に広がる穂高岳が素晴らしく美しかった。それだけで、す
べてが報われた(でも、たとえ景色を見ることができなかったとし
ても、ここまで来たことに十分満足できたと思う)。

 また行きたい。今度は穂高岳にも登ってみたい。

 帰り支度を整える時には、もうそう思っていた。

 登山は、登ることばかり考えてしまうけれど、登れば下りが待っ
ている。

 事故は、登りより下りの方がずっと多いと聞く。つい気が緩んで、
石に躓いたり、転落したりする。同じ事故でも、登りより下りの方
が受けるダメージは大きい。下ってみて、実際そうだとよくわかる
ようになった。

 登りは、極端な言い方をすれば、体力と根性があれば何とかなる。
けれども、下りはそうはいかない。

 下りに必要なのは、技術だ。

 こういう時、人生を当てはめるのは野暮だと思いつつ、ちょっと
似ていると思う。

 登りばかりに躍起になって、何とか頂上まで辿り着いたとしても、
それで人生は終わらない。下りが待っている。そして、下りを間違
えると、今までのすべてを台無しにしてしまいかねない。

 下りこそが醍醐味。下りこそ、今までに得た経験がものをいう。

 私も、人生の後半を、ちゃんと下ってゆきたいと思う。

最近の唯川さん


 『ヴァニティ』(光文社)が発売中。

 二十代、三十代の女性たちが出てきます。短編、ショートショート、ドラマ原作など、いろいろ詰まってます。


 『トロワ』(角川書店)一月末発売予定。

 石田衣良さん、佐藤江梨子さんとのコラボ小説です。唯川さんは四十八歳のカリスマエステティシャン・季理子を担当。エロティックなシーンも多いです。

(編集部)

title background ©yo--Fotolia.com

©2012 daiwashobo. all rights reserved.