大和書房 WEB限定連載

いつまでもたどりつかない日記〜小説家は3度嘘をつく 唯川 恵

vol.3  プラスマイナス・ゼロ



 東京から軽井沢に移住して、九年が過ぎた。

 軽井沢と言うと、避暑地というイメージがあるせいか、優雅な印
象を持たれる方が多いけれど、それは文字通り夏の間だけのことで、
冬はとんでもなく寒い。
 マイナス10℃も珍しくない。
 今朝もそうだった。
 かつてマイナス17℃を経験したこともある。少なくとも、うち
のテラスに置いてある温度計はその数字を差していた。あの時は我
が目を疑った。
 ここはどこ?
 緯度の問題じゃない。標高千メートルの地は、やはり一筋縄では
いかないようだ。

 だから、夏は光熱費が抑えられるが、冬は暖房費がべらぼうにか
かる。
 うちは、電気とガスと薪ストーブを組み合わせているのだけれど、
東京で暮らしていた時のほぼ四倍。
 セレブな方々は、家の中を半袖で過ごせるくらい暖めるようだが、
私はもったいなくてとてもできない。室内温度はだいたい15℃ぐ
らい。
 対策として、分厚いフリースを着て、裏起毛ズボンをはき、レッ
グウォーマーを付けて、ボアスリッパで過ごしている。
 この寒ささえなければ、快適な生活が送れるのに、と、冬が来る
たび嘆いている。

 では、冬の軽井沢が嫌いかというと、実はそうでもない。
 むしろ、四季の中でいちばん好きかもしれない。
 浅間山から吹き降ろす風は澄み切り、ちりちりと音をたてそうな
くらい凍っていて、呼吸するたび、肺の中が洗われてゆくような気
がする。
 木々を見上げると、樹氷で真っ白に輝き、まるで砂糖菓子みたい。
常緑樹に雪が積もった姿は、まさに天然のクリスマスツリー。晴天
率も高いので、青空にそれらが映えて、うっとりするくらい美しい。
 寒いのは辛いけど、この景色は捨てがたい。
 と言うか、この景色があるから、寒さも何とか耐えられるのだろ
う。

 だから、プラスマイナス・ゼロといったところだろうか。

 さて、軽井沢の夜は静かで深い。
 聞こえるのは風と、木々のこすれる音ぐらい。街灯も少なく、あ
っても間隔が離れているので、窓の外は真っ暗になる。星もよく見
えて、夜って本当はこんなに暗かったのね、と改めて思う。
 ただ、夜の外出は難しい。
 東京にいた頃、夕ご飯を食べてから、ウォーキングやジョギング
に出掛けていた。
 でも、こちらでは無理。暗すぎて足元が見えない。その上、舗装
されていない道もあるので(うちの前がそう)、足を取られてしま
う。前に、私も石ころに躓いて捻挫してしまった。
 夕方、まだ空が明るいから大丈夫、と思っていても、陽が陰ると
森の中はいきなり暗くなる。なので油断できない。こちらに来てか
ら、バッグの中には常に小型の懐中電灯が入っている。
 それに、夜の外歩きは、何に遭遇するかわからない。
 何と言っても、怖いのはイノシシ。
 うちの辺りも時々出没する。突進されたら、どんな状況になるか
……。
 私はまだ被害はないけれど、姿は見たことがある。想像より大き
くびっくりした。野生動物と出会ったら静かに後ずさる、の鉄則も
忘れて、うわっわっわっ! と大声を上げてしまった。
 だから、懐中電灯を持っていても、夜は徒歩で外に出ない(車で
も動物がぶつかることがあるので要注意)。
 東京にいた頃、夜道で怖いといえば、ひったくりや通り魔だった。
真夜中の静かな住宅街を歩く時は緊張した。バッグをしっかり小脇
に抱え、何度も後ろを振り返りして、家路を急いだものだ。
 それが、今ではイノシシ……。
 何だかちょっと笑ってしまう。
 どっちが怖い、と比べるのもどうかと思うけれど、まあ、両方と
も遭わずに越したことはない。

 これもプラスマイナス・ゼロといったところだろうか。

 私は家で仕事をしているので、一日外に出ないことが多い。そん
な日は気分転換も兼ねて、夕食ぐらいは外で食べたいと思う。
 もちろん高級レストランなどではなく、気楽で安価なお店で十分
だ。
 けれども、残念ながら、こちらはその手のお店が極端に少ない。
 ファミレスもないし、牛丼屋さんもない。居酒屋チェーン店もな
い。たまにはエスニック料理がいいなぁ、などと思っても、当然な
がら、ない。あっても、かなり遠かったり、やけに高かったり、冬
場はお休みだったりする。
 たまに東京に行くと、いろんな店がひしめくようにあって羨まし
い。和洋中、肉系、魚系、野菜系、がっつり系、軽食系、カフェ系、
お持ち帰り系、なんでもあり。
 連なる看板を眺めながら、時には、今日はどこに行こうか、何を
食べようか、と迷いたいなぁと思う。

 ただ、こちらは店は少ないけれど、地元で採れる食材は素晴らし
い。
 初夏の高原野菜は、瑞々しくて味が濃い。ドレッシングも必要な
くて、生でばりばりいただいてしまう。
 山菜も豊かだし、鮎や信州サーモンといった川魚もある。時には
ジビエだって。秋には珍しい天然キノコも食べられる。
 うちの周りにも、春から秋の間、フキやフキノトウ、タラの芽、
山栗、リコボウ(キノコの一種)などが普通に育っている。
 それらの食材を肴に、地酒を呑む。信州はいい蔵元がたくさんあ
り、日本酒だけでなく、焼酎もおいしい。
 ここは、まさに地産地消の世界。

 というわけで、やっぱりこれもプラスマイナス・ゼロということ
になるだろう。

 あれがない、これがない、私はずっとそんなものの捉え方をして
きたように思う。
 特に若い頃は、みんなの持っているものは何でも欲しかったし、
持ってないものはもっと欲しかった。
 あれば幸せ、ないのは不幸。
 そんな幼稚な考え方しかできなかった。
 でも、本当はそうじゃない。そうじゃない、ということがここで
暮らしはじめてわかったように思う。
 もう、ないものを数えるのはやめた。
 やめたら、気持ちが軽くなった。
 なあんだ、なくても十分暮らせるじゃない。うん、幸せじゃない。
 移住して、いちばんよかったのは、それがわかったことかもしれ
ない。

最近の唯川さん


2月末に唯川さんの新刊書籍が2点出ます。


まずは単行本で、

『途方もなく霧は流れる』

週刊新潮で連載され、話題を呼んだ、

軽井沢を舞台にした大人の小説です。


『一瞬でいい』

こちらは文庫本で上・下巻の読み応えある小説です。


いずれも新潮社から。


楽しみですね!(編集部記)

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