大和書房いつまでもたどりつかない日記〜小説家は3度嘘をつく 唯川 恵 WEB限定連載

 

vol.9  ささやかな楽しみ、そして顛末



 仕事が一段落してホッとした。
 これで、楽しみにしていたことができる、と、妙にテンションが
上がっている。
 楽しみにしていたこと、と言っても、楽しいイベントでも何でも
ない。
 単なる手の回らなかった家事全般だ。
 下駄箱を掃除する。床にスチームモップをかける。網戸を洗う。
納戸と食器棚と冷蔵庫の整理をする。
 けれども、そういうことが、仕事に追われている間、たまらなく
したくなる。
 夜、パソコンに向かっていると、今ここで下駄箱の靴をみんな取
り出し、仕切り板もはずして、雑巾掛けをして、一足一足磨いて、
きちんと並べ直したらどんなにすっきりするだろう、と、ほとんど
衝動に近い感覚に包まれる。
 その時の私には、南の島のバカンス、や、思う存分買い物をする、
よりずっと魅力的に思える。
 でも、今はそんなことをしている場合ではない。優先すべきが何
なのか、ちゃんとわかっている。
 だから、仕事が終わったら思う存分やるぞ、と、楽しみにしてい
たのだ。

 そして、仕事が終ったわけだが――

 さっき下駄箱を開けたのだけれど、あれだけあった情熱が、きれ
いさっぱり消えていてびっくりした。
 あんなに下駄箱の掃除がしたかったのに、いざそれができる状況
になると、すでに興味を失っている。逆に、どうしてあれほど下駄
箱の掃除がしたかったのか、不思議でならない。
 やりたい、という願望と、やる、という行動は、次元の違うとこ
ろにあるらしい。
 今度にしよう、時間はあるのだから。
 と、自分に言い訳して、下駄箱の戸を閉めた――。

 代わりと言っては何だが、庭木の剪定をすることにした。
 剪定といっても、伸びすぎてしまった枝をちょこちょこと植木鋏
で切ってゆくだけである。
 雪柳が、私の背丈より高くなって、アジサイに陽が当たらなくな
っている。八重山吹が、縦横無尽に枝を伸ばし、道路にはみ出てい
る。それらをカットした。ついでに、玄関脇に生えていた草も抜い
た。
 よし、すっきりした。

 と、気分よく振り向いたとたん、ため息がでた。
 庭がものすごい状況になっている。

 雑草とひとくくりにしてしまうのは、名を持つ植物に対して失礼
な話だが、庭いちめん、名前の知らないそれたちが私の腰ぐらいま
で伸びている。その植物に、蔓系の植物がまとわりついていて、呑
気そうに揺れている。背の伸びない植物は、地面を覆うように陣地
を広げている。日陰は苔で埋まっている。
 わかっている。しょうがないんだから。こうなるのは覚悟してい
たんだから。
 と、自分に言い聞かせる。

 それでも思う。
 ここはかつて芝生だったのだと。

 この家に住み始めた時、素足でも走り回れるような芝生の庭にし
ようと、楽しみにしていた。
 ただ、造園の人に「芝を守るために、それ用の除草剤が必要だ」
と言われた。
 除草剤は使いたくなかった。それをすれば、土の中にいるいろん
な生き物にも影響を及ぼすとわかっていたからだ。
 手入れが大変だと言われたが、自分の力で何とかしようと決めた。
 確かに、造園の人が言ったように、すぐに芝の間から草が顔を出
した。私はそれをせっせと引っこ抜いた。それぐらいの労力を惜し
むつもりはない。
 翌年、かなりの草が生えたが、それも頑張って抜いた。
 そして、その翌年、草は爆発的に増えていた。芝は完全に凌駕さ
れ、その姿すら見えなくなっていた。
 もうとてもじゃないが私の手には負えない。
 結果、芝生の庭、という私の楽しみは消えてしまったのである…
…。

 ついでに言うが、もうひとつ諦めざるを得なかった楽しみがある。
 テラスにテーブルを出して、ゆったりお茶を飲む、というものだ。
 どうして諦めたのかというと、虫刺されがひどいから。
 蚊はまだいい。ブヨ、をご存知だろうか。ブト、と呼ぶ地域もあ
るらしい。
 あれに刺されたら大変なことになる。三年連続、私は刺された。
それも何箇所も。大きく腫れ上がり、熱を持ち、痛いし痒い。治る
のに時間がかかる。
 蜂にも刺された。手がみるみるうちに膨れ上がった。
 私はどうやら、虫に刺されやすい体質らしい。家人はそうでもな
いのに、私はしょっちゅう刺される。
 だから、テラスに出る時は、長袖長ズボンに着替え、ソックスを
穿き、全身に虫除けスプレーをかけなければならない。
 お茶を飲むために、いちいちそんな面倒なことはしていられない。
 というわけで、結局、その楽しみを諦めたのである。

 何事においてもそうだけれど、夢と現実は違うものだ。

 でも、考えてみれば、もともとここは彼らの場所だったのだ。そ
こに勝手に侵入したのは私の方だ。
 私が草や虫に困っているように、あっちだって闖入者の私に困っ
ているだろう。
 草にしても虫にしても、ここに存在するのが自然の形なら、それ
でよしとするしかないではないか。
 というわけで、今はこの状況を受け入れている。

 さて、話は戻って、そうこうしているうちに、次の仕事に取り掛
からなければならなくなった。
 結局、下駄箱を掃除するのも、床にスチームモップをかけるのも、
網戸を洗うのも、納戸と食器棚と冷蔵庫の整理をするのも、次へと
回されることになった。
 今、こうしてパソコンのキーを叩いているのだけれど、どういう
わけか、玄関マットの洗濯がしたくてたまらなくなっている。
 あれを外に出して、柄付きブラシでごしごし洗ったらさぞすっき
りするだろう、という魅力と戦いながら、仕事をしている。
 この仕事が終わったら絶対にしよう。

 もちろん、顛末はわかっている。

●インフォメーション


 軽井沢は標高1000メートルの高地とはいえ、夏の盛りは30℃を超える日もあるそうです。半年前はマイナス20℃だったそうなのに……。冬と夏で50℃の気温差があるというのも、考えてみればすごい場所ですね。


 9月初旬、千代田区主催・ちよだ文学賞の選考があり、審査員である唯川さんは今、最終選考に残った応募作を読んでいるそうです。「選考は緊張しますが、とても刺激的でもあります。毎回楽しみにしています。」と唯川さん。
 どんな作品が選ばれるのか楽しみですね!
 ちなみにちよだ文学賞は毎年10月に発表され、受賞作および最終選考に残った作品は1冊500円で購入できます。詳しくは千代田区HPで。

(編集部記)

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