大和書房いつまでもたどりつかない日記〜小説家は3度嘘をつく 唯川 恵 WEB限定連載

 

vol.11  富士山に登る!



 8月の末、富士山に登ってきた。
 標高3776メートル。
 言わずと知れた日本でいちばん高く、いちばん有名で、いちばん
登山客の多い山である。

 もともと、その三か月ほど前、山好きの編集者たちと浅間山山系
にある水の塔と篭の塔に登った。下山した後の宴席で、今度は富士
山に登ろう、という話になった。
 酔っ払っていた私も、つい調子に乗って「行こう行こう」と賛成
し、話がとんとん拍子に決まったのだ。
 しかし、考えてみれば、私はまだ2500メートル強しか登った
経験がない。そこから更に1200メートル以上も登れるだろうか。
一説によると、三千メートルを超えると、三人にひとりは高山病の
症状が出るという。
 けれども、賛成した以上、後には退けない。それに、こんなこと
でもない限り登るチャンスはないかもしれない、と、覚悟を決めた。

 メンバーは七人。
 そのうちの五人は、当日の早朝、新宿発のバスに乗り、十時頃、
吉田口五合目に到着の予定となった。私はガイドの言葉に従って
(夫なのですが、以下ガイドで統一)、前日、吉田口に近いホテル
に泊まった。何しろ、ガイドを除くと、メンバーの中で私がいちば
ん年上で、体力もない。大事を取ったのだ。
 前の晩はよく晴れていて、ホテルから富士山の山道に続く山小屋
の明かりが見えた。明日は自分がそこにいる、と思うと、何だかわ
くわくして来た。その夜は早めに夕食を摂り、晴れますようにと祈
って、ベッドに入った。
 翌日、予定通り、吉田口五合目でメンバーと合流した。五合目と
言っても2300メートルある。高度に慣れるため、一時間ほどぶ
らぶらして過ごすようガイドに言われる。
 それにしても、五合目の賑やかさには驚いた。レストランや土産
物屋が何軒もあり、登る人、下りて来た人、五合目を観光に来た人、
まさに老若男女でいっぱいだ。外国人も多い。
 みな朝食が早かったので、腹ごしらえをする。私はお蕎麦を食べ
る。トイレは百円。

 十一時、いよいよ出発となる。

 最初はなだらかな道が続いた。道幅も広く、馬車も通っている。
何だか拍子抜けしつつも、ガイドからゆっくり登るように言われ、
みなとお喋りしながらのんびり歩いてゆく。残念ながら周りはガス
に覆われ、風景はほとんど見えない。そんな中、樹林の中にニホン
ジカを三頭発見してテンションが上がる。
 一時間弱で六合目に到着。
 標高2390メートル。たった90メートルしか登っていないの
か、と、軽くショックを受ける。
 ガスがますます濃くなっている。うーん、天気ははずれだったか
もしれない。けれどもその分涼しい。
 水を飲み、チョコレートと塩キャラメルを食べる。ガイドから、
とにかく水を飲むようしつこく言われる。脱水が高山病を招く大き
な要因になるのだそうだ。喉の渇きを感じてからだと遅いというの
で、とにかく飲む。
 五分ほど休憩して、再び登山開始。
 しばらく歩いて樹林帯を抜けると、様子が一変した。斜面が急に
なり、つづら折状に落石防護堤が設置してある。それに沿って登っ
てゆく。足を止めて見上げると、道が果てしなく続いている。信じ
られないほど果てしない。だんだんと息が上がり、足が重くなって
ゆく。高校生らしき団体にさらりと追い抜かれて、少し傷つく。ま
だ先は長い。私、登れるだろうかと、やや不安になる。

 水を飲みつつ、何とか一時間強で七合目、2700メートルに到
着する。
 人生の中で、いちばん高い所に来たんだなぁ、と感慨に耽ったも
のの、まだガスがかかっていて景色は今ひとつ。
 そこで、マッチョな外国人グループを見る。わっしわっしと登っ
てゆく。タフだなぁ、と見惚れてしまう。後から聞いたのだけれど
、同日、ハリウッド俳優のヒュー・ジャックマンも登っていたらし
い。もしかしたら、もしかしたかもしれない。もっとじっくり見て
おけばよかった。
 高山病の予防になるというので、メンバーからアミノ酸や酸素の
タブレットをもらう。世の中にはすごい食品が出ているのである。

 そこで十五分ほど休憩を取り、八合目に向かって出発する。
 今夜は八合目の山小屋で宿泊の予定だ。
 道幅は狭く、急斜面で、溶岩の岩場だ。登っても登っても登りが
続く。はぁはぁ、と自分の息遣いばかりが耳に届く。さすがに、み
なもすっかり無口になっている。ああ、早く登山靴を脱ぎたい、横
になりたい、その一心でひたすら登ってゆく
 富士山で驚いたのは、コースが山小屋の前を必ず通るように出来
ているということだ。七合目から八合目の間だけでも七軒ほどの山
小屋がある。金剛杖を買った登山客が、焼印を押してもらっている。
それも富士登山の楽しみのひとつらしい。
 途中の山小屋で五百ミリリットルの水を購入する。水二本とスポ
ーツ飲料を一本持って行ったのだが、すでに二本が空になっていた。
山で買えるというのが有難い。ちなみに一本五百円。えっ、と思う
がそれが山値段。トイレは二百円。

 一時間半ほどかかって、三時過ぎ、ようやく八合目の山小屋に到
着した。
 標高3100メートル。とりあえず高山病にもならず、無事に到
着できてホッとした。
 今日は、休憩を含めて四時間余り、七百メートル強を登ったこと
になる。
 四時半に夕食を食べる。(カレーとおかずが少し)。その後は自
由時間。日が落ちるとガスも晴れて、眼下に景色が広がった。富士
吉田の町の明かりがきらきら揺れている。星も近くて美しい。天気
はよさそう。明日のご来光を楽しみにして、七時半頃には寝袋に入
る。
 眠ったり目覚めたりを繰り返した。熟睡は無理。ただ、高山病予
防のためにも熟睡する必要はないとガイドから聞いたのでほっとす
る(寝ている間、呼吸が浅くなるためとのこと)。
 ここでまた驚いたのは、夜中なのに登山客がひっきりなしに登っ
てゆくということだ。聞くところによると、弾丸ツアーというもの
もあるらしい。夕方のバスに乗り、夜に登山を開始して、そのまま
頂上まで行き、ご来光を仰いですぐに下る。零泊二日の行程。体力
勝負としかいいようがない。
 夏の富士山は眠らない山だ。二十四時間、人が動いている。

 翌日は、午前一時に出発する予定だったのだが、登山道はご来光
目当ての登山客で渋滞を起こしているらしい。夏と言えども気温は
10℃を切っている。頂上は5℃ほど。立ち止まっていると寒さが
身に沁みる、というわけで、ガイドの判断により、出発は三時に変
更された。
 私といえば、朝ごはんはしっかり食べたし、体調もいい。これな
ら大丈夫、頂上まで行ける、と自信を持った。ヘッドライトを装着
し、防寒用のレインウェアを着込み、いざ出発。

 ところが……。
 登り始めて三十分ほどした頃から、気分が悪くなってきた。朝食
がもたれて胃がムカムカする。もしかしたら吐くかも……、と、不
安になって来た。
 いや、きっと気のせい。登っているうちに楽になる、と自分に言
い聞かせるのだが、本八合目(3360メートル)まで来て、もう
駄目だと思った。吐き気がまったく収まらないのだ。
 私はガイドにこっそり耳打ちした。
 「こんな体調なので、私はこれ以上登れそうにない。みんなで行
って来て」
 情けないが仕方ない。メンバーの足を引っ張りたくない。諦める
しかない。
 ガイドはしばし考え、急遽この本八合でご来光を見よう、と、提
案した。上の方では渋滞も続いていて、どっちにしろ日の出には間
に合わないとの判断だった。心苦しかったが、他のメンバーも賛成
してくれたので、有難く甘えさせてもらい、リュックを下ろして見
物の体勢に入った。
 私のこの気分の悪さは、やはり高山病の症状のひとつらしい。朝
まであんなに元気だったのに、と、落ち込みそうになる。しかし、
ガイドは「陽が昇れば楽になる」と言った。そんな気休めを言われ
ても……。ご来光を見たら、みなをここで見送ろう、と決めていた。
 そして、いよいよご来光。
 ああ、本当に素晴らしかった。群青色の空が少しずつ朱に染まり、
空全体が紅く燃え上がってゆく。やがて海から太陽が昇ってきた。
みな、うっとりと眺め入る。山小屋の人が「今シーズン最高のご来
光」と言っていた。嬉しい。最後まで登れなかったけれど、これで
十分、ここまで来た甲斐があったではないかと、自分に言い聞かし
た。
 ところが、陽が昇るとガイドが「さあ、行くぞ」と出発を促した。
いや、私は無理、下山で合流するから(合流用のルートがある)、
と答えたのだが「大丈夫、行ける」と確信したように言う。
 それで仕方なく、また登り始めた。太陽が出て、徐々に身体が温
まってゆく。
 すると不思議なことに、いつの間にか吐き気が収まっていた。ガ
イドの言う通りなのだ。何だかよくわからないが、太陽の光を浴び
ているうちに、身体に力が蘇ってくるような感覚が広がった。
 もしかしたら登れるかも、と、思った。それをガイドに伝えると、
やけに自慢げに「だろう」と、笑った。太陽ってすごい。太陽はエ
ネルギーをくれる存在なのだと改めて実感した。

 それから一時間。
 九合目3570メートルまでやって来た。
 残り135メートル。傾斜がきつい。足場が悪い。太腿と脹脛が
痛い。息が切れる。でも、もうすぐ。とにかく一歩。もう一歩。
 あ、鳥居が見えた!
 思わず歓声を上げてしまう。
 その先が頂上だ。
 最後の力を振り絞り、ようやく3776メートル、頂上に到着し
た。
 眼下に広がる眺めが素晴らしかった。駿河湾、伊豆半島、伊豆大
島。真下には樹海が広がり、河口湖や山口湖もはっきりと見て取れ
る。独立峰なので遮るものがない。
 ああ、ここなのか、ここが富士山の頂上なのか。
 天候に恵まれた幸運に感謝しながら、みなで握手を交わし、水の
ペットボトルで乾杯した。

 今回、富士山に登ると決めてから、それなりのトレーニングをし、
お酒も控えた。装備も整えたし、サポート本も読んだ。
 もちろんそれは、年もとって、体力にも気力にも自信がなかった
からだ。だから準備は慎重に進めた。
 もし、若い時に登っていたら、きっとナメてかかっていたような
気がする。そして、もっと痛い目に遭っていたように思う。
 今の年齢だからこそ、メンバーと共に、無事登頂できた有り難味
をしみじみと感じている。
 富士山。
 日本でいちばん高い山。いちばん有名で、いちばん登山客の多い
山。
 でも、やはり一筋縄ではいかない山。
 同時に、やはり一度は登ってみる山だともつくづく思った。

●インフォメーション


 「それでも、実は、下りも相当きつく、いつかその時のことも書きたい」と唯川さん。

 10月下旬、集英社より『今夜は心だけ抱いて』が文庫の新装版で出版されるそうです。
 四十七歳の母と、十七歳の娘の身体が入れ替わって…というドキドキする展開のお話です。おもしろいです!(編集部記)

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