大和書房いつまでもたどりつかない日記〜小説家は3度嘘をつく 唯川 恵 WEB限定連載

 

vol.16  雪を泳ぐ



 かつて、編集者は不健康な生活をしていた人が多かった。
 真夜中まで原稿と向き合い、仕事が終われば朝まで呑む。ヘビー
スモーカーで、ラーメン系炭水化物とファストフード好き。おまけ
に早食い。徹夜マージャンに徹夜カラオケ。しょっちゅう肝臓や尿
酸値の数値が高いと嘆いていた。そして、それがちょっと自慢だっ
たりもした。

 ところが、最近、私を担当してくれている編集者はすっかり健康
志向だ。
 ランニングにウォーキング、ロードバイク、ボルダリング、水泳、
などなど、みなスポーツで汗を流している。自慢の数値は体脂肪率
に変化した。

 私も若い頃は無茶をしたが、この年になるともう無理はきかない。
規則正しい生活、且つ、運動をしなければと思っている。
 もう長く腰痛持ちで、いったんギクッとやると、一週間はまとも
に動けなくなる。
 原因はデスクワークとわかっている。医者からは、身体を動かす
ことがいちばん効果的だ、とも言われている。
 それで登山を始めたのだけれど、さすがに今の季節は無理だ。
 私の住む軽井沢は標高千メートル。冬は雪が降るし(これを書い
ている時点で、庭は三十センチの積雪)、一日中零下の真冬日も多
い。路面が凍結しているので、外に出るのは躊躇いがある。下手を
すれば、転倒して骨折してしまうおそれがある。
 冬は、半年近くも続く。その間、家に引き篭もる生活になってし
まうので、運動不足この上ない。
 近くにスポーツジムはないし、エアロバイクを購入してみたもの
の、結局、使わずじまい。

 というわけで、ついに始めてしまったのである。
 冬山登山である。

 冬山なんてとんでもないと思っていた。
 山は、標高差とは関係なく、冬はまったく別の顔を持っている。
 あんなところは登山のプロや、経験豊かな人しか登ってはいけな
い。素人が行けば遭難するに決まっている。生半可な気持ちで足を
踏み入れてはいけない場所だ。
 それでも、冬の間、外に出て身体を動かすといったら……。
と、無謀にも始めてしまったのだった。

 もちろん、いきなり高い山には登れない。
最初は、歩いて十分ほどのところに登山口がある離山(標高125
5メートル。標高差250メートル)から始めてみた。この山は、
春夏秋の三シーズンは、週に一度くらいの割合で登っているのでよ
く知っている。
 まず、雪のための靴とアイゼン(スパイクみたいなもの)を用意
した。
 しかし、アイゼンを装着した靴は想像以上に重い。片足一キロは
超えている。
 とにかくそれを履いて登ってみたのだが、重さのせいもあって足
がなかなか前に出ない。負荷がかかって太腿と脹脛がつらい。慣れ
ていないので、アイゼンの爪を引っ掛けて転んでしまう。三十分ほ
ど登ったところですっかり疲れ果ててしまった。
 それで懲りて、やめようかとも思ったのだが、せっかく装備を整
えたのだからという、けち臭い考えもあり、しばらく続けてみるこ
とにした。

 離山でこまめに練習し、ようやく何とか山頂まで辿り着けるよう
になった。そうなると欲が出て、もう少し高い山にも登ってみたく
なる。
 うちから車で四十分ほども走れば、二千メートル級の山々の登山
口に行ける。
 真冬の、天気がよくて風の弱い日を見計らって、私はガイド夫に
連れて行ってもらうようになった。春夏秋は何度も経験しているけ
れど、冬は初めてだ。

 行ってみて、驚いた。
 天候に恵まれた真冬の山が、こんなに美しいとは思ってもみなか
った。
 空気は澄み、空は嘘みたいに青く、眼下に広がる町々はもちろん、
八が岳、北アルプス、南も中央も、手に取るように近くに見える。
富士山もくっきりと浮かび上がっている。葉を落とした木は、空に
向かって凛と伸び、葉をつけた木には雪が積もってクリスマスツリ
ーのようだ。雪原には、カモシカやウサギ、キツネの足跡が残り、
冬鳥が空を横切って行く。息をすると冷たい空気が流れ込んで来て、
排気ガスやタバコで汚れた肺が洗われてゆくようだった。
 それを経験してから、月に一度くらいのペースで登るようになっ
た。

 あれは浅間山系の黒斑山(2404メートル)に向かった時であ
る。
 前日にたくさん雪が降り、トレース(踏み跡)がなく、新雪をラ
ッセル(踏み固めて道を作る)しながら登ってゆくことになった。
誰も歩いてない道を登るのは、体力が必要で大変だけれど、気持ち
いい。
 と、調子に乗って登ってゆくうちに、ふと気がつくと、吹き溜ま
りに入り込んでいた。
 雪は一メートル以上積もっているようだった。
 足が雪の中にすっぽり埋まってしまう。足どころか、腰の近くま
で埋もれてしまった。足を前に出そうとするのだけれど、雪から抜
くことができない。じたばたしているうちに、まったく身動きが取
れなくなってしまった。
 その時、先を行っていたガイド夫が言った。
「泳げ」
 泳ぐ?
 雪の上に腹這いになり、泳ぐようにして吹き溜まりを抜け出せ、
というのだった。
 雪を泳ぐって……。
 けれど、それが抜け出すいちばんの方法だと言う。
 仕方なく、ガイド夫のやり方を真似て、ほふく前進の変形みたい
な平泳ぎをした。
 情けない格好だけれど、確かに前に進み、ようやく足のしっかり
着く場所に辿り着くことができたのだった。

 ホッとしつつ、ふと振り返ると、登ってくるグループの姿が見え
た。そのグループは、私と同じコースを歩いてくる。
 けれども、不思議なことにちっとも沈まない。すたすたと、気持
ちよさそうにこちらに向かってくる。
「どうして?」と、尋ねると「ああ、スノーシューを装着している
からな」と、こともなげに答えが返って来た。
 スノーシュー。
 それは、浮力が強く、ラッセルにも強い、「かんじき」のすごく
進化したものだった。
 そんなものがあるなんて。それを装着すれば、あんなに深い雪を、
あんなに易々と歩けるなんて。
 私はスノーシューに釘付けになった。

 家に戻って、すぐさま登山ショップに走ったのは言うまでもない。
 しかしながら、スノーシューもオールマイティというわけではな
かった。
 急斜面では使えないし、狭い登山道では使いづらい。それなりの
重さもある。結局、雪の条件によって、アイゼンとそれとの使い分
けが必要とのことだった。
 それはつまり、そのふたつを持って登るということである。
 ますます荷物が重くなる。
 きつい……。
「そういう辛さを耐えてこそ、冬山の愉しみがわかる」
 と、見透かされたように言われ、黙ってしまうしかなかった。
 冬山は、雪も深いが、奥も深い。


<インフォメーション>


 この原稿をいただいた日も離山に登ってきたという唯川さん。

 そんな冬山にはまっている唯川さんからの伝言です。

「冬山には、その他にもさまざまな装備が必要です。天候も変わりやすいので、登られるなら、ぜひ経験者やプロガイドと一緒をお薦めします。」

 みなさまどうぞお気をつけて。(編集部記)

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