大和書房いつまでもたどりつかない日記〜小説家は3度嘘をつく 唯川 恵 WEB限定連載

 

vol.24  秋の小旅



 過ごしやすい季節になったので、どこかに出掛けたいと思うのだ
けれど、根が出不精のうえ、何だかんだと雑事に追われて、ずっと
実行できずにいた。
 それで仕事で上京したついでに(と、言ったら失礼だが)前から
気になっていたところに足を延ばして来た。

 行き先は、四谷にある於岩稲荷おいわいなり陽運寺である。
 実は今、日本の怪談や伝説の異譚ものを書いている。怪談となれ
ば、はずせないのは『四谷怪談』。日本でもっとも知られた、もっ
とも怖い物語である。
 けれども、ずっと書けずにいた。
 と言うのも『四谷怪談』の映画、舞台、歌舞伎などを手掛けると、
必ずお岩さんの祟りがある、と聞くからだ。フィルムに映像が映っ
てなかったり、天井からライトが落下したり、主役が怪我をしたり
病に倒れたりする、というものである。
 小心者の私は、それが怖かった。けれど、周りから「『四谷怪談』
がない怪談集なんて有り得ない」と、言われ、ようやく決心がつい
た。だったら、そういう場合にみなさんがそうするように、私もお
参りに行かなければ、と決めたのである。
 タクシーの運転手さんに、その名を告げると、躊躇なく連れて行
ってくれた。いちおう地図を持参していったが必要なかった。
やはり有名なのだろう。
 道路事情のため、少し離れた場所に車は止まった。「この道を行
ったらすぐだから」と教えられ、言われた通りに歩いて行った。
 遅めの午後、通りには誰もいない。道はさほど広くない直線で、
結構距離もあるのに、人の姿はまったく見えない。すぐ近くには外
苑東通りが走っているのに、やけに静かだ。
 通りの両側には、洒落たマンションや一軒家が並んでいた。高級
住宅街といった風情である。お岩さんを祀た寺が、このような住宅
街の中にあるというのは意外だった。
 陽運寺はひっそりと現れた。周りの環境とのギャップに、一瞬、
タイムスリップしたような気になってしまう。こじんまりした神社
である。赤い幟が風に揺れていた。
 もしかしたら、おどろおどろしい雰囲気に包まれているのでない
かと思ったが、意に反して、優しく穏やかな女らしい気配があった。
 門をくぐり、本堂の前に立ち、書かせていただきます、よろしく
お願いします、と、お参りをした。これで少し、肩の荷が下りた。
 通りに出ると、すぐ目の前にもうひとつあるのに気づいた。こち
らの幟には『於岩稲荷田宮神社』と書かれてある。
 ふたつあるとは知らなかった。もちろん、こちらもお岩さんを祀
ってあるのであれば、素通りするわけにはいかない。
 中に入ると、男性がひとり立っていた。年は三十歳そこそこ。チ
ェックのシャツに、コットンパンツといういでたちである。その人
は、もうお参りを済ませたのか、植木の傍に佇んでいた。その日は
日差しが強かったので、日陰で休んでいるのだろうと思った。
 同じように拝殿の前で手を合わせた。終えてから振り返ると、そ
の男性の姿はなかった。
 帰ったのだろうと思い、私も神社を出た。でも、通りに人影はな
い。まだほんの短い時間しかたっていない。それなのに、まるで消
えてしまったように姿が見えなくなっていた。
 ふと、思った。
 もしかしたら、あれは伊右衛門だったのではないか───。

 改めて資料となる本を何冊か読んだ。
 お岩さんが毒を盛られ、顔が爛れ、髪の毛が抜けて、伊右衛門に
化けて出る、という話は有名だが、実は大変に夫婦仲がよく、優し
く働き者で、最後はふたり、仲睦まじく暮らした、という説もある。
『東海道四谷怪談』は、鶴屋南北の戯曲である。本当にあった話か
どうかはわからないが、きっかけになるような事件はあったに違い
ない。
 作家が、小さな事実をこねくり回し、想像と妄想を駆使し、好き
勝手に物語を作り上げるのは、昔も今も変わらない。それに妙に納
得しながら、お岩さんにしたら、はた迷惑であったのではないか、
と思いを馳せた。

 さて、それとは別に、しばらくして長野市に出掛ける用事があっ
た。
 それを利用して、善光寺に行って来た。二十五年ぶり、いやそれ
以上になるだろう。長野県民になって早十年。ぜひまた行きたいと
思っていた。
 大きな山門をくぐって本堂に向かった。重厚な佇まいが素晴らし
い。建物に人を圧倒する迫力がある。それでいて華やかさもある。
 しばらくの間、ひとり、ご本尊がある瑠璃壇の前に座っていた。
辺りは静けさに満ちていた。
 いや、本当は静かなんてわけはない。小学生たちの見学や、観光
客がたくさんいて、喧噪に溢れていた。
 けれども、本堂全体に深くどっしりとした静けさが広がっていて、
それが喧噪をすべて呑み込んでいるような気がした。とても穏やか
な気持ちになった。こんなゆったりした感覚に浸るのは久しぶりだ
った。
 その後、本堂の地下に下り「お戒壇巡り」をした。真っ暗な回廊
を、右手を壁に添わせて進んでゆく。ご本尊の下にある「極楽のお
錠前」にも触れられた。普段、信仰心などまったく持ち合わせてい
ない私でも、その時ばかりは、殊勝な喜びに包まれた。

 ふたつとも、二時間ばかりの、ほんの短い旅である。

『東海道四谷怪談』の歌舞伎が上演されたのは百八十八年前。モデ
ルとなったと言われるお岩さんは、さらにその百五十年ほど前に亡
くなっているという。
 善光寺では、極楽の錠があるところまで行って来た。

 それを考えると、その二時間で、何と果てしない時空を旅してき
たのだろうとも思う。


<インフォメーション 唯川さんより>

『天に堕ちる』(集英社文庫)が発売となりました。十人十色、愛のなれの果ての物語です。

 長野市のトークショー、仙台の文学塾に足をお運びいただいたみなさま、ありがとうございました。

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